No.15 1998.04"Миллион звезд" ミリオン・ズビョースト/百万の星

極東ロシアにおける日本語の教授

ロシア極東国立総合大学函館校 校長 イリイン・セルゲイ

ロシアの日本学は、トルコ学・セム学・イラン学・中国学よりずっと遅れて形成された。ロシアにおける体系的な日本語・日本研究はようやく19-20世紀の境に始まったのである。この時期ロシアは「東方外交」を積極的に行い始めた。このため日本・日本語の専門家の育成も強く求められるようになった。極東諸国の事情通育成の教育機関として東洋学院が1899年にウラジオストクに設立された。東洋学院における言語学習の伝統的特色は、実用語学の学習である。
20世紀初頭のロシアにおける最も偉大な日本学者は、東洋学院二代目学院長ドミートリィ・ボズネーエフである。ボズネーエフは日本を、地理・歴史・文化・文学・日本語というように多面的に研究した当時の東洋学者の典型である。また、彼は当時の他のペテルブルク大学出身の東洋学者とは違って、言語自体に関心はなく、何よりも実践的な研究者であった。
ボズネーエフとともに20世紀初頭、東洋学院で働いたペテルブルグ大学東洋学部出身者の中で最も著名なのは、エフゲーニィ・スパリヴィンである。スパリヴィンの活動はきわめて多彩で広範囲であった。何よりも彼は実践的な日本学者であり、教師、翻訳家であった。スパリヴィンは日本語の教科書、参考書、会話書などを執筆刊行した。彼の発意で日本から前田清次、松田衛、川上秀雄が日本語講師として東洋学院に招かれた。
1920年4月は極東の日本学の発展において重要な一里塚となった。東洋学院を基礎として極東国立総合大学が設立されたのである。東洋学院自体は同大学の東洋学部に改組された。東洋学部の日本語講座は東洋学院の伝統を保持しており、1930年代には日本語で書かれた多数の文献が刊行された。
しかし、スターリンの粛清のピークとなった1937年には極東国立大学は閉鎖されてしまった。
極東の東洋学者育成の中心を再興するには多大の時間を要し、ようやく1962年になって極東国立大学文学部附属東洋諸国語講座が作られたのである。ここに日本語学部があり、3-4名の講師が働いていた。地元の日本研究者の不足を補うため、モスクワやペテルブルグから学者が招かれた。
1968年になってようやく、第1期の日本研究者10名が卒業した。そのうち4名が講師として講座に残った。68-69年には講座は既に14名が仕事を行い、70年には講座の人員は60名に達していた。その大多数は、極東国立大学の卒業生である。この時期、モスクワ大学、レニングラード大学、モスクワ科学調査研究所で最高の日本研究者の養成が始められた。1976年までに極東国立大学の東洋学部の再建問題が提起された。修業年限が6年から5年に短縮された結果、1971年には日本研究者の卒業者数は2倍の46名になった。そのうち8名が大学に残った。
1970年代半ばから東洋学部に修士号を持つ最初の日本研究者が出現した。この時期体系的な日本語教科書の刊行に多大の注意が払われた。70年代半ばから80年代半ばは極東における日本学の最盛期であった。この間、極東国立大学と歴史研究所には24の修士論文がパスし、11名の修士号を持つ日本研究者が極東国立大学に勤務していた。80年代末までに、学生・講師の質の点で日本文献学講座はソビエトで最高であった。しかし残念なことに、1990年に東洋学部ならびに極東における日本学が困難な道程に立たされた。1990-91年には8名の講師が講座を去った。ようやく1993年になって、主として東洋学部の優秀な卒業生のおかげであるが、極東国立大学の幹部の増員がうまくいった。
日本学、全体として東洋学を今後発展させていくために、(極東国立大学の枠内での)東洋学院の再組織化とロシアで最初の(そして目下唯一の)日本学部の組織化がおこなわれることになると、近い将来、東洋学院は極東における日本学の中心であるだけでなくロシアの最もすぐれた日本学の中心として語られることになろう。