極東の窓

ロシア極東連邦総合大学函館校がお送りする極東情報満載のページ。
函館から、ウラジオストクから、様々な書き手がお届けします。

ロシア語クラブ

 1945(昭和20)年の敗戦後間もなく私が中学生だったころ、当時盛んに流れ込んでいた欧米の映画に混じって、1本のソ連映画が紹介され評判になりました。「石の花」というその作品は、当時まだ珍しかった“総天然色(カラー)”映画で、それを観たのが今にして思えばロシア語に接した私の初体験でした。
 その後大学に入り、社会主義への関心の高まりを背景に、個人的にはトルストイの『戦争と平和』にのめり込むなど、ロシア語を勉強してみたいという気持ちが深まったように思います。大学2年の時、教養科目におかれていたロシア語を選択することにしました。ところが、地道でまじめな努力を怠ったせいで、一夜漬けの試験勉強で何とか単位はとれたものの、“基本のアルファビート”すら身につかず、結局20年も経って一から学び直すことになります。
 
 大学を卒業し母校の函館東高校に勤め始めて10数年経った頃、私は当時図書館分館で毎年開かれていたロシア語講座に思いきって参加することにしました。1973(昭和48)年から2年間通いました。この講座は戦後の函館で長い歴史を持ち、年齢・職業の様々な方がおられて男性、女性も半々くらいでした。1年目の初級クラスでは、高専のY先生から基本をしっかり教えて頂き、私もようやく33のロシア語字母と簡単な挨拶・文章が頭に入るようになりましたが、この教室の特色は何と言っても、かつて日魯漁業の社員の奥さんとなられ永く函館に在住されていた成田ナデジダさんに、発音の指導を受けることができたことでしょう。
 ところで本題のロシア語クラブについてです。昭和48年というのは、高校の新学習指導要領でいわゆる“ゆとり教育”の導入が決められ、本来の自発的な部活動とは別に、生徒全員が何らかのクラブ活動に参加する「必修クラブ」制が始まった年でした。東高校でも初年度は文化系・運動系合わせて20のクラブが設けられ、ペン習字・囲碁将棋・凧などといったものもありました。私はさっそくこの機会に便乗して、2年目から「必修ロシア語クラブ」を開設したというわけです。
 昔から、人に教えることで自分が一番学ぶことができる、と言われています。ロシア語クラブを始めた年、分館の講座は中級に進んではおりましたが、自分自身がまだまだ未熟なのに大胆にも教えたとは、今考えれば冷や汗ものです。ただ、集まってくれたあまり多くない(多分5、6人の)生徒たちと一緒に、日本では少数派の外国語であるロシア語を学び楽しめたのは幸いでした。手元に残るノートによれば、第1回目はロシア語の系譜について、インド=ヨーロッパ語族に属する言語として英語と共通するвода(water)といった単語があることを専門の世界史と結びつけて説明したり、アルファベットを覚える際は英語を忘れること、などと強調した覚えがあります。
 必修クラブ制は結局なし崩し的に廃止となります。ロシア語クラブもどれ位のことを勉強できたのか、今では記憶があいまいです。多分、ロシア極東国立総合大学函館校の玄関脇の易しいロシア語くらいは分かるようになったと思いますが、そのほかロシアの民謡やポップス――「ともしび」「カチューシャ」「モスクワ郊外の夕べ」など――をテープで聞き、一緒に歌ってみたことも、今や懐かしい思い出となりました。
 ロシア語クラブから30数年、去年、函館東高校と函館北高校が統合され発足した市立函館高校では、生徒諸君にロシア語を学ばせるカリキュラムを作ったと聞きました。日ロの正式な国交樹立で函館に最初の領事館がおかれてから丁度150年の今年は、色々な行事が行われるようです。地元の若い人たちが、これをきっかけとして、“懐の深い北方の隣人”ロシアへの関心と新たな経済・文化の交流を深めてくれれば、と願っております。

元函館東高校教諭  俵  浩 治