学報 "МИЛЛИОН ЗВЕЗД"

学報"МИЛЛИОН ЗВЕЗД"

No.100 2019.7 "Миллион звезд" ミリオン・ズビョースト/百万の星

百万の星となれ/
ロシア極東連邦総合大学函館校 総務課長 大渡 涼子

  1994年、函館市元町に誕生したロシア極東連邦総合大学函館校(当時はロシア極東国立総合大学函館校)は、今年4月、開校25周年を迎えることができました。
 学報「ミリオン・ズビョースト」は開校の年の11月に創刊号を送り出し、以来コンスタントに年4回の発行を重ねた結果、この2019年7月号をもって、めでたく第100号となりました。2001年7月号(第28号)からは、函館校に事務局を置くこととなった函館日ロ親善協会の会報も兼ねるものになりました。
 創刊号はB5判4ページ、白黒コピーの素朴なものでした。教職員による巻頭言があり、事務局から学生への連絡事項があり、編集後記、最終ページには向こう3カ月分の行事予定が載っています。その後学生の投稿が増え、写真が載るようになり、A4判カラー印刷12ページなどと大きく変貌をとげた今でも、同じスタイルを継承しています。
 これまで一度の休刊もなく、発行を続けられたこと、そして個性豊かな教職員が紡ぐこの巻頭言は、ロシア人教員が書いた日本語の巧みさに驚き、ロシア語で書かれた場合には日本人教員の翻訳の妙に感心するのです。ある時、これを残しておかなければいけない!と強く思い、開校15周年の時に文集として1冊にまとめました。
そして今は、発行のたび函館校のホームページにも掲載しているので、世界中どこでも読むことができるのです。時代の移り変わりを感じます。
 「ミリオン・ズビョースト」とは、ロシア語で“百万の星”という意味です。草創期の号にはmillion starsと書かれているものもあります。函館校の学生がいずれここを巣立ち、夜空にあまた輝く百万の星となれ、との思いから名付けられたと誰かに聞いたような気がします。この名前が、私はとても好きです。
 現在、函館校の卒業生は 240名あまりと、その数はまだまだミリオンには、ほど遠い。けれどこの25年間、多くの人々の支えをいただきながら、たゆまぬ努力を積み重ねてきたその輝きは、百万の星に少しでも近づけたのではないかと自負しています。
 そして函館校開校25周年、併せて函館日ロ親善協会設立30周年の今年、7月4日の夜に函館市芸術ホールにおいて、記念コンサート「『極東の窓』から」を開催します。函館市在住のピアニスト・高実希子さんとスウェーデンから毎夏来函しているヴァイオリニスト・田代裕貴さんによる“オールロシアプログラム”のクラシックコンサートです。プロコフィエフ、ラフマニノフ、チャイコフスキーなどなど、ロシアが世界に誇る素晴らしい音楽家たちの曲を演奏していただきます。
 開校当初から活動を続ける函館校の合唱サークル「コール八幡坂」もロシア語による歌を披露します。そしてグランドフィナーレでは、函館市民の誰もが歌える名曲「はこだて賛歌」を、作詞・前川和吉氏、作曲・廣瀬量平氏のご遺族の承諾を得て、ロシア語に翻訳したものを歌います。ホール全体に「はこだて賛歌」が流れ、ご来場のお客様とともに、最後は日本語で歌いたいのです!
 コンサートタイトルにもなった「極東の窓」とは、2006年から開設している函館校のブログのタイトルですが、1994年、函館に開かれた小さな「窓」である函館校からロシアを見つめ、この「窓」からロシアを日本に発信し続けた四半世紀を振り返り、これまでのみなさまのご支援に対する感謝の気持ちを込めました。
 この小さな「窓」から極上の調べが流れる。そして、その音の一つひとつが天へと上り、百万の星となる。どうぞこの瞬間を、一緒に分かち合ってください。

100号記念特集『 函館校の思い出 』
『ミリオン・ズビョースト100号に寄せて』

元学生係 細野 祥子

ロシア極東大函館校関係者の皆様
 開校25周年および学報「ミリオン・ズビョースト」100号を迎えましたことを心より御祝申し上げます。私は開校まもない1994年から1997年まで事務局学生係を務め、第1期生から第3期生の学生と共に函館分校創成期を過ごしました。決して順風満帆の船出とは言えなかった当時を知る者として函館校が25周年という大きな節目を迎えられたことに深い感慨を覚えます。
 私は外国語大学のロシア科卒業後にロシア貿易に従事しておりましたが、就職2年目の1991年にソ連崩壊とバブル崩壊の直撃を受けました。体調を崩して東京から北海道へのUターンを考えていたところ、ご縁があり開校後1学期終了後に函館校に赴任することになりました。私の主な任務は学生課全般業務の他、ロシア人教授と日本人学生の橋渡しをすることでした。学生は少人数ながら年齢もバックグラウンドも様々で、私よりずっと年上の社会人学生もいました。
そこがまた極東大函館校のユニークで魅力的な側面でもありますが、目的もニーズも学問への姿勢も違う一人一人に向き合うことの難しさに、若さと未熟さ故にうまく対処できなかったこともあります。自分の大学時代を思い出しながら試行錯誤する中で、学報「ミリオン・ズビョースト」は、事務局と教員と学生を繋ぐ媒体として、また口頭ではなかなか伝えられない学生への応援メッセージを発信する場として誕生しました。
学報の名称を考えるにあたり、心の中で「日本人が聞いてパッとわかるロシアのものって何かな?ピロシキじゃ風情がないし、ペチカ、ベリョースカ、カチューシャ....どれもありきたりかな?あ、そうだ、日本でもヒットしたミリオン・ローズはどうだろう?」と思い、英語教員の鳥飼先生に意見を聞くと「百万本のバラよりも星がよくない?ミリオン・スターズ!無数の志を持つ者達。いいじゃないですか!えーと、ロシア語の格変化形は....」と近くにいたロシア人教授達に確認、賛同をすぐにもらい「ミリオン・ズビョースト」で即決したのでした。
 開校当初は旧文部省未認可のため補助金も学割も卒業後の就職の保証もない状態でしたが、私は学生達が羨ましくて仕方ありませんでした。そこには当初から一流のロシア人教授によるイマージョン教育、ロシア本校への留学機会、ヨールカ祭といった生きた文化体験等を通した得難い学習環境があったのです。

「ウハゴルラノス」の思ひ出 准教授 鳥飼やよい

 函館校開校25周年に当たり、「ウハゴルラノス」についての寄稿を依頼されたので、「ウハゴルラノス」について一筆記しておこうと思う。「ウハゴルラノス」とは、開学して数年の頃に3号ほど立て続けに発行された後に休刊し、そのままその存在も忘れられた知る人ぞ知る幻の学生新聞である。
 学生新聞を作ることは私の発案であったので勝手に命名まではしたが、指導的介入をする予定はなかった。当時すでに刊行されていた大学事務局発の「ミリオン・ズビョースト」とは一線を画しながらも双頭を成し得る学生の学生による新聞があってもよいと思ったのだ。学生に放課後の活動の場も必要であった。しかもその学生たちは開学直後の激動の時代に、様々な突発的事件が日々起こりくるスリリングなキャンパスライフを送っていた。ネタに不足はなかった。
 主旨に賛同し集まった二期生を中心とした学生たちは、放課後になると言われもしないのにさっさと編集会議を開き、取材をして記事を集め、使い慣れないワープロを勝手に持ち込んで苦労しながら紙面レイアウトをするという具合に、恐ろしく自主的にこつこつと新聞づくりに励んだ。一方、私はたまに編集会議に顔をだすほかは表紙デザインとロシア語ひと口メモの連載を受け持つなど好きなことをさせてもらった。
 そうして出来上がった「新聞」というより正確には季刊誌である創刊号の紙面は、着任直後の先生の独占単独インタビューや、学生や教職員に依頼し又は寄稿されて集まったエッセイや短歌や短編小説などの文芸作品、ロシア留学体験記、元町付近の情報やイラストや、前述のロシア語ひと口メモなどが配された盛り沢山のものであった。B5見開きの6ページほどの素朴な形態ながら極東大とそこに集う人々の熱い思いが溢れていた。こうして「ウハゴルラノス」は全校に配布され活動を軌道に乗せた。しかし続く第2号と第3号が発行された後、編集員の留学その他の特殊な事情が絡まった結果ついに活動停止に至ったのであった。
 「ウハゴルラノスухогорлонос」とはロシア語で耳鼻咽喉科のことである。口にした時の語感が楽しく意味とのギャップも面白いという単純な理由から命名したのだが、学生新聞には相応しくないので「ドゥルージュバ(「友情」)」等のまともな名称に変えるよう当時の校長や同僚に真顔で意見された時は心底驚いた。それは断固として拒否しつつも妥協案として急遽「ウハゴルラノス・マニフェスト」を載せた。それは「ухо(耳)で聞き、горло(喉)で味わい、нос(鼻)で嗅いだ情報を発信する」とかいう完全なこじつけの後付けであった。名前はそう簡単に譲るわけにはいかないのだ。
 今思えば「ウハゴルラノス」は学生にとっての大学生活における光合成であった。そうでなかったかもしれない。何しろ創刊号の反響がどのようなものであったかについても不思議な程に記憶がない。実は現物さえもすでに手元にはない。こうして伝説と化した物への妄想は制御不能である。ちなみに実現不可能な妄想に満ちた目次を考えることが新聞作りの楽しい活動の一つであったことはよく覚えている。
 そんな「ウハゴルラノス」は現在も休刊中である。有志があれば20年目にしての復刊も可能である。大学は今年開校25年を迎え学校運営も教育内容も設備もかつてとは見違えるほどに整えられ、教職員の努力の甲斐もあっていつのまにか極東大学の学生活動と放課後は最高度に充実してしまっている。学生たちも今や日本とロシアを股にかけかつてない多忙な大学生活を送っている。SNSを通じて誰もが個々に情報を自由に発信することが可能になった現在であるが、この極東大学という唯一無二の場所で、独立した一つのコレクティブな学生独自の視点が開かれ自由な光合成が行われることも価値あることではないかと思う。

1996年卒業、元学生係 安村美奈子(旧姓 畠山)

 私は平成6年にロシア極東大学函館校の一期生として入学しました。  どんな学校か、どんな学生が集まってくるのか、よくわからないまま、とにかくロシア語の勉強ができると張り切っていました。
 私は二年制に入学したのですが、四年制と混合の経験者クラスに入ることになりました。  このクラスがなかなか大変で、ロシアに留学経験のある人、高校のロシア語科を卒業した人、市民講座で勉強したことのある人など、レベルに随分と違いがあったのです。市民講座で勉強しただけの私はそんなに経たないうちについていけなくなり、迷った末に未経験者のクラスへ移動することにしました。
 このクラスにも困ったことがありました。開校当時、ロシア語会話と文法を担当する先生方はロシア語教育の専門家で、日本語を話せませんでした。ですから、授業はすべてロシア語で行われていたのです。初めてロシア語を学習する人が、すべての説明をロシア語で受けるのですから理解できるはずがありません。学生たちは大混乱でした。
 例えば、1コマ90分の授業中に先生が説明したことを、学生たちはただの音としてしか聞いていません。授業が終わると「今、何について話してたんだろう?」と言っている人がたくさんいました。そんな授業が一日4コマもあるのです。授業の終わりに先生が宿題について話しても、誰も理解できないので、次の日宿題をやってくる人はひとりもいません。それで先生が怒っても、なぜ怒っているのか誰もわからず、あの先生は怖い人だと思われていました。何人かの学生がやめていきました。
 でも数か月後、ロシア語だけの授業に皆だんだんと慣れていきました。すべてを理解できる訳ではないけれど、授業が楽しみになっていました。放課後には誰かの家に集まり、一緒に宿題をしたり、単語の暗記を競争したり、ロシアの歌の練習もしました。一日中ロシア漬けの毎日でした。ウラジオストクへの留学やロシア語通訳のアルバイトも経験させてもらいました。
 2年間はあっという間に過ぎ、卒業の日を迎えました。
 その後、私は幸運にも函館校の事務員として働くことになり、開校から約10年もの間ずっと、この学校と関わることができました。退職してもう15年になりますが、今でも自分の家のように感じています。たくさんの思い出がある、私の大好きな場所です。

2003年卒業 原田 朋(旧姓 片瀬)

 私の母方の祖父母は北方領土の択捉島出身だ。
 いつかビザなし交流に参加してみたいと思っていた時、「こんな学校もあるよ」と母に連れて来られたのが『ロシアまつり』。1999年。私の運命の歯車が動き出した。
 開校5周年の記念行事として人気ロックバンドのムミートローリが来日した。1年生の私には意思疎通が難しかった。ちょうどロシア語の難しさに根を上げそうになっていた私は彼らと会話がしたい一心で勉強を頑張り、メールでのやり取りを続け、2000年ウラジオへ留学中コンサートに行き嬉しい再会を果たした。
 2001年。税関のロシア語研修で大学に2ヶ月来ていた職員、将来の旦那と学校の食堂で出逢う。
 2003年。卒業式の時イリイン校長とタチアナ先生から「間違いを恐れずロシア語を話す姿は素晴らしいです」と最高の(?)褒め言葉と学長賞をいただいた。
 2005年。結婚式で校長から「あの2人は函館校のお陰で結婚しましたよ」と会場が笑いに包まれる温かい祝辞を頂く。
 2013年。主人が在ウラジオストク日本国総領事館勤務を命じられ家族4人でウラジオストクへ引越し。文化広報担当として家族で色々なイベントに参加し着付けや折り紙、書道、茶道、昔ながらの遊びなどを通じて日露交流をする。子供達は現地の幼稚園と小学校に通いあっという間にロシア語がペラペラになる。沿海地方を車で旅したり、ムルマンスクでオーロラを見たり、キジ島で木造教会の世界遺産を見たり、夏のバイカル湖畔で1週間過ごしたり、シベリア鉄道に乗ったりロシア国内旅行もたくさんした。
 それもこれも全ては大学に入学してから始まった私の人生。今でも帰省するたびに温かく迎えてくださる先生や事務局の皆様には感謝の気持ちでいっぱいだ。
 開校25周年、学報100号、おめでとうございます!!

2003年卒業 同窓会長 小柏 哲史

 今から18年前の2001年2月、私は自転車でころんで右足首の骨を折りました。まだ雪の残る冬の函館を自転車で走ったのも、今にして思えば無謀、若気の至りとしか言い様がないのですが、当時の私は東京の方で大学を卒業したものの定職につかずに函館に戻ったばかりでして、何か破れかぶれな気持ちが強かったのかもしれません。
 私の足は思ったより重傷だったようで、かつぎこまれ手術をしていただいた某病院の若い先生に「全治3か月。治ってもちゃんと歩けないこともあるよ~」などやや軽いノリで言われ、大変に落胆したことを覚えております。さらに問題だったのはその後の予定で、私は3月にロシア極東大の試験を受け、4月から通うつもりだったのでした。
 医師にも相談したのですが術後間もなく万が一また転んだら本当に歩けなくなるとのことで外出の許可が下りず、「これは極東大に入るのは無理かな。またバイト生活でもするしかないかな」と途方にくれていたところ、なんと極東大事務局の方は病院にまで出向いてくれ、病院の会議室で入学試験を受けるという特例措置をとってくれたのでした。結果、無事入学が認められた私は、松葉杖をつきながらですが晴れて極東大の学生となれたのです。
 入学後数か月は、病院から外出許可を得られた数時間だけ授業を受けるという状態で、少し出遅れた感のある極東大生活でしたが、10歳ほど年の離れた私を同級生扱いしてくれた級友たち、「怖いロシア人」と外見だけで判断していたけど実はとても人間味にあふれた先生方などに恵まれ、今までにない前向きな気持ちで日々を過ごせたことを覚えています。在学中に現在の妻とも出会い、事務局の方に現在の仕事(に直接つながる仕事)を紹介していただいた事も併せ、私の人生は極東大とのかかわりが大きな分岐点になりました。
 あれから月日も経って足もすっかり治り、今は函館日ロ親善協会や本校同窓会の会長などもさせていただいておりますが、それもあの時の恩返しをしたいとの思いからです。私の先輩や同級生、そして後輩たちも皆なかなか個性的な人物が多いように思いますが、そうした懐の深さが本校最大の魅力ではないかと思っております。今年で25周年を迎えた私たちの母校が、これからも私のような生徒を受け入れ、育ててくださいますように。これからも少しずつ、できる範囲でではありますが、お手伝いさせていただければと思っております。

2005年卒業 荒屋敷 里子(旧姓 長谷川)

 子供の頃、父はよく私を近くの海へ連れて行ってくれました。海岸で貝殻やガラスのかけらを集めるほか、打ち上げられたヘンテコな文字で表記された「ゴミ」を拾って見るのが好きでした。そのゴミを拾い上げては、海の向こうのヘンテコな文字で生活を営む人々が存在が気になり、さらに目を凝らせばその国が見える気がしました。この「ゴミ達」のおかげで、私は「近い外国」に興味を持つようになりました。時は流れ、次々と同級生が地元で就職や結婚を決める中、私が「ロシア語」を学ぶ道を選んだのは、小さな時に父と見た「異国のかけら」が忘れられなかったからでしょう。
 さて、函館に来たのはいいものの、まともに外国語を学んだ経験がない私は、しばらくロシア語にも先生にも同級生にも慣れることができませんでした。とりあえず、みんなが2、3回聞けば覚えられる単語が覚えられないので、20回練習し、八幡坂を登りながらテープを繰り返し聞いて、与えられた宿題はきちんとやることにしました。それでも出来が悪い私でしたが、卒業式にはイリイン校長先生から「努力賞」をもらいました。それは私にとって紛れもない「学長賞」で、最終的にはみんなでハッピーな卒業式を迎えられました。
 その後、ご縁あって極東大学の本校で教えることになった私は、毎日愉快なカルチャーショックを受けていました。特に教員室でシャンパンを開けたり、時々ケーキが振舞われたりするのには驚きました。でもその習慣に慣れるのは早く、すぐ大好きになりました。男の先生達はいつも日本語でおやじギャグを飛ばし、女の先生達はいつも美しくよく笑い、皆ダンスが上手でした。一体、どうして「ロシア人は冷たくて笑わない」というステレオタイプが世に広がったものか。いつだってロシア人は優しく、明るく、大らかです。ちなみに、私の意見では「ロシア人は冷たくて笑わない」のは今も昔も「郵便局員」だけ。それは紛れもない事実だと確信しています。
 学生ともよく公園で一緒にお酒を飲みました。寮で料理を作ったり、歌を歌ったり、踊ったり、本当に楽しいウラジオ教師時代でした。一番印象に残っているのは、ロシア人学生が時々「ポケット辞書」と称される古くて巨大な辞書(私には魔女の本に見えた)を抱えて、宿題に励んでいる姿です。何を熱心に調べているのかのぞいたら、ど・ど・ど「docomo」の意味を一生懸命探していたのです。どんな巨大な露和辞典だって魔法の本だって「NTTドコモ」は説明されていないでしょう。もし、初めての学生たちが彼らでなかったら、日本語教師を続けていなかったかもしれません。
 こんな風にロシアでの出来事を人に話すと、「どうしてそんなにロシアが好きなの?」と良く聞かれるます。私が惹かれるのはロシアに住む人々の日々の営みです。コーカサスのシャシリク売り、中央アジアや朝鮮や中国からの出稼ぎ労働者、極寒の中でガサガサのトイレットペーパーを売るおばあさん、配管の部品らしきガラクタをきれいに並べたおじいさん、私の頭を鷲掴みしたスキンヘッドの怖いお兄さん。なにせ私の心をときめかせたのは、ロシアの美しいバレリーナや建物や文学ではなく、田舎の海岸に打ち上げられた「ゴミ」なのですから。もしかしたら、私と同じように沿海地方の海岸で日本のゴミを拾ったことがきっかけで日本語を勉強し始めたロシア人がいるかもしれません。小さな頃の私の小さな興味を今の私に繋げてくれた母校に、心から感謝しています。

2012年卒業 鈴木 美里(旧姓 森谷)

 この度は25年の年輪を重ね、100号を発行されるに至ったこと誠におめでとうございます。
卒業以来定期的に送付頂く学報を読んでは懐かしく思っております。
入学当初、キリル文字の形に惹かれロシア語に一目惚れしたこと、ロシア文学・映画・アートに夢中になったこと、チェブラーシュカのグッズを沢山集めていたこと、英語の授業で聞いていたMissing Personの内容にハラハラドキドキさせられたり、格変化や運動動詞や動詞に何十種類とついてくる接頭辞に悩まされたり、ロシアまつりやマースレニッツァで歌を歌ったことやウォッカで二日酔いになったこと、そして何よりロシア人教師陣に卓球で負けたくない一心で日々卓球の練習をしていたことを思い出します。
ついこの前のような気がしますが、もう8年前。仕事を始めてから時間が飛ぶように過ぎていき、目の前のことに一生懸命で忘れていましたが、ロシア語は私が今までの人生の中で唯一夢中になり真剣に取り組んだ事でした。仕事にも何かしらこの経験を活かせていると思います。
在学生の皆さんにお伝えしたいのですが、ロシア語やロシア文化・歴史を勉強する上で沢山の壁にぶつかる事があるかと思いますが、ぶつかり続けてください。将来その努力を活かせる時が絶対に来ます。私は現在商社に勤めており、海外取引の営業をしております。社会に出ても毎日勉強、輸出入に関する規制や貿易実務、商談の仕方などなど、きりがありません。
社会に出てロシア語も活かせれば尚良しですが、ロシア語という難しい言語を勉強した経験は今後の社会生活で必ず活かせます。(ビジネス英語もぜひ勉強して!)
長くなりましたが、これからもミリオン・ズビョースト及びロシア極東大学のますますのご発展を心よりお祈り申し上げます。

年代の近い方々へ…感謝をこめて
2012年卒業 畠山 重人

 入学してから足かけ10年。一昔前、Жили-былиの世界になりました。なのに、極東大での2年間は、私にとって益々輝きを増しています。いい事はもちろん、あまり思い出したくない事さえ実は貴重な体験なのだと、後悔や反省とともに黒い脳細胞に心地よく映るのです。
 1、イリイン様
 入学のバンケットの時、貴方は私の質問に答えてустрицаと書いてくださいました。でもなぜか、тの上に棒が引いてありました。それが貴方の癖である事はそのとき奥様から伺いました。カキフライはжареные устритыだというのも教えていただきました。まだ形容詞も名詞の複数形もわかってはいない私に。メモは大切にとってあります。お宝です。
 追伸
 夏だったと思います。私は、駅前のBデパートでカキフライを食べました。これはいけませんでした。ウエイトレスを呼んで、他の客には決して出さないように言いました。シェフはでてきませんでしたが気付いたようです。お金を返そうとしましたが、支払いました。冷凍のカキは、見た目ではシェフでもわからないからです。カキ独特の腐敗臭はフライにしても消えません。「あれが、カキフライの味だと函館の人に思われたくない。俺はカキ屋だ。」それにしても、Bデパートの廃業は悲しい。大好きだったのです。
 2、アニケーエフ様
 ウラジオから来航したヨットに連れて行っていただきました。航海の安全を祈念してイコンが飾ってありました。日本の船では神社のお札でしょう。私たちはウォッカとサラをいただきました。Салоのことです。作り方はグラチェンコフ先生に教わりました。函館で一度作り、仙台でも作りました。それなりに美味しくできたと思います。さて、イノシシとクマが獲れて、ふと思いました。サラはどうかな?仙台のロシア語仲間に食していだだきました。特にクマは好評でした。また、シャシリクは貴方のレシピを活用させていただいております。
 3、アンドレイ様
 御馳走していただいたグルジア料理の名前を忘れてしまいましたが、何とも不思議な素晴らしい味わいでした。若い人たちにとっても忘れられないものとなったでしょう。あの時も申し上げましたが、貴方に提供した山鳥のセシウムの値は130ベクレルでした。基準値が500ベクレルの時でしたのでさほど問題だとは考えませんでしたが、現在は100ベクレルです。痛風の悪化を招いたやもしれません。大変失礼しました。

2018年卒業 金子 智昭

 自分が極東大学に入学したのは今から5年前の2014年春のことです。当時自分は東海地方の男子寄宿学校を卒業した後で東京の実家に帰ってぶらぶらと無為に日を過ごしていました。そんな自分が入学を決意したのは偏に高校時代、寄宿舎で勉強そっちのけで熱中したロシア文学の影響と20世紀初頭のロシア史への漠然とした興味の為に他なりません。
 自分の学年は最初全部で16人近くいたように記憶します。これが一人、二人と減り最終的に半分程になった訳ですが、そもそも2つ上の学年などは自分の入学当初から誰もいないような状態でした。先輩達からこの学年は何人残るかなどと脅かされる度に自分は心中何があっても卒業だけはしてやると決意を新たにし、日々勉強に打ち込んだ次第です。
 予ての夢であったロシア行きのチャンスは予想以上に早くやってきました。JT奨学金インターンシップがこの年の夏に始まり、入学後僅か数ヶ月でありながら自分はその第一回派遣学生としてこれに参加する事が許されたのです。この時モスクワ、ペテルブルクを実際に訪れるという体験を出来た事が今に繋がっていると感じます。
 また2年次にはАБВГ-dayで1位と総領事賞、札幌の全道弁論大会では2位を頂き、自分のロシア語にも着実な進歩が見られたかのように感じていました。しかしこれと同時に自分は最初の大きな挫折もこの時期に味わいました。サハリンからの女子舞踏団の訪函に際して自分は通訳として空港への出迎えを引き受けたのですが、強い緊張の為に思うようなコミュニケーションが図れず、自分が2年間してきた事の成果にも疑問を感じました。それでもこの時出会った少女の一人とはその後も一年ほどメールでのやり取りがあり、お陰でなんとか諦めずに学習を続ける事が出来ました。
 ウラジオ留学は自分にも大きな影響を与えました。趣味である古い葉書の収集の為、毎週末現地の蚤の市に出かけ、トゥバ人の学生には半ば強引に筋トレに誘われ、色々な寮に住むロシア人の友達の部屋に皆で集まってはトランプなどする日々でした。自分は同輩などからこの時期を境に性格が明るくなったなどと言われるようになりましたが、実際そうだったのかもしれません。
 4年次は夏のエカテリンブルクでの青年キャンプ、それと力を入れた卒業論文の印象が強くあります。自分は在学中弁論大会の副賞だったサハリン訪問も含めると4度も訪露する機会を頂きました。ロシア各地を訪れ、現地の人々と交流した経験は自分の視野を広げる大きな助けとなりました。卒業論文ではレフ・トルストイと最初に交流した日本人である小西増太郎について研究し、倉田先生のご助力もあって小西のお孫さんに当たられる方にも直接お話しを伺い、従来日本で知られてこなかった小西に関するロシア語の一次資料も紹介する事が叶いました。
 自分は現在サンクトペテルブルクに留学をしています。準備学科も無事に修了し、9月からは晴れて国立大学の歴史学部修士課程へと進む予定です。5年前には想像も出来なかったような人生が待っていました。これからの2年間は函館で培った自分の実力でどこまで行けるのかひとつ見てみようと思います。