極東の窓

ロシア極東連邦総合大学函館校がお送りする極東情報満載のページ。
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日本のなかの露国式丸太小屋とペチカ

はこだてベリョースカクラブ

一般向け文化講座「はこだてベリョースカクラブ」の今年度第3回目の講話内容です。
テーマ:「日本のなかの露国式丸太小屋とペチカ」
講 師:倉田 有佳(教授)

 北海道では、明治初年、「露国式丸太小屋」と「ペチカ」が積極的に築造されました。「コサック式」、「校倉式〔現在のログハウス〕」の名でも呼ばれていた露国式丸太小屋には、ペチカが備え付けられました。ロシアのペチカとは、煉瓦積みの暖炉であると同時に、パンを焼き、煮炊きを行うオーブン機能を持つ窯のことです。
 露国式丸太小屋の防寒性とペチカを高く評価したのは、開拓使長官を務めていた黒田清隆でした。榎本武揚の助言を受け、明治11(1878)年8月、黒田長官はウラジオストクを訪問し、同地方の住居その他の生活様式を調査しました。ちなみに、この時、函館の商人たちは、北海道物産販売調査のため、汽船「函館丸」で道産品をウラジオストクに持参しました。続いて同年の11月、黒田長官は、「夏秋ノ候温和ノ時」の視察では実態をつかめないとして、厳寒期のロシア建築の室内環境を知るため、敢えて厳寒期を選びサハリンのコルサコフに視察に向かいました。港湾氷結のため、短日時で調査打ち切りますが、この時、ロシア大工の雇い入れ交渉を行います。
 こうしてサハリンから北海道に招聘されたのが、ハモトフ、ノヴォパーシン、イワトフ(ママ)の3名です。このうちファデイ・ノヴォパーシン(Фадей Новопашин)は、家庭の事情により契約満期前にコルサコフへ戻っていきますが、開拓使との契約期間中(明治11年12月7日から2年6カ月)、日本人伝習生に技術を伝え、主に札幌本庁に露国式丸太小屋の官舎、学校、そして篠津(現江別市)に入植する屯田兵のための兵屋などを露国式(風)丸太組で建てていきます。内地から北海道にやってきた移住者を定着させ、経済・産業を発展させていくためには、防寒のために家屋改良が最も急務だったからです。であり、官設の家屋は市民に推奨する際の手本となるべきものと考えからでした。

 ストーブ暖房は家屋の改良と一体をなすものとの考えに基づき、開拓使はステパン・ムールジンを「煉瓦師」としてウラジオストクから招へいし、明治13(1880)年12月28日から翌年11月18日までの1年間、月給銀貨80円で雇用契約を結びました。お雇い外国人ムールジンは、露国式丸太小屋に、「露国型仕様」の「学校暖炉」、「両口暖炉」、「暖炉竃(かまど)」を設置し、ペチカや料理竈(かまど)の築造法を日本人に伝授しました。また、明治天皇の来道(明治14(1881)年)の際の宿泊所となるアメリカ様式の建物「豊平(ほうへい)館」に「料理竃」(「暖炉竈」とも)を築造しました。

 ところで、開拓使が、ペチカや料理竈を「無比ノ良法」と考え、アメリカ風のストーブよりも高く評価したのは、使用する薪の量が少なく、長い時間火気を保てる点にありました。しかし、普及を阻む難点が多々ありました。具体的には、ペチカと不可分の露国式丸太小屋には、まっすぐな丸太の確保が難しく、角を削って加工しました。建築費は琴似式兵屋(日本風家屋の屯田兵屋)の約四倍と高く、また構造が難しいため量産できませんでした。丸太の隙間に詰めた苔がうまく固まらず、乾いてボロボロと落ちて隙間ができてしまったため、効率よい暖房の効果が見られませんでした。
黒田開拓使長官が相当入れ込んだ露国式丸太小屋とペチカでしたが、開拓使の廃止(明治15(1882)年)、三県時代、さらに北海道庁時代へと北海道が新時代を迎える中で廃れていきます。
他方で、大正時代の末、道庁や札幌病院のペチカの設置のために北樺太の亜港(アレクサンドロフスク)からロシア人のペチカ職人(ウルワンツイフ爺さん)が札幌に招聘されたことを当時の新聞が報じています(1924年9月19日付『小樽新聞』)。北海道庁の「蒸気式暖房」、札幌病院(現札幌市立病院)の煉瓦造の「蒸気暖房給水装置」(=暖房)の設置に関わったと思われます。「ペチカ」ではなかったようですが、煉瓦を巧みに扱うペチカ職人の腕前を発揮したに違いありません。
昭和の時代に入ってからも北海道には「丸形ペチカ」や「壁ペチカ」がありましたが、燃料が石炭から灯油に替わる中、ペチカは下火となっていきます。

 日本領樺太時代時代(1905~1945年)の露国式丸太小屋については、豊原周辺に残されていたものの写真や小屋内部の見取り図(間取り)を示しながら解説しました。