極東の窓

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医学・医療面からみた幕末明治初年の函館とロシア

はこだてベリョースカクラブ

一般向け文化講座「はこだてベリョースカクラブ」の今年度第6回目(最終回)の講話内容です。

テーマ: 医学・医療面からみた幕末明治初年の函館とロシア

講 師:倉田有佳(教授)

1858年に日本で最初の駐日ロシア領事館が置かれた函館は、ウラジオストク開基(1860年)前後、ロシア艦隊がニコラエフスクとウラジオストク、あるいはポシエト、オリガなどの沿海州南部の諸港の間を航行する上での休養と食糧調達(新鮮な野菜・水・乾パン等)、あるいは越冬のための寄港地となっていた。

「ロシア病院」は、こうした露国軍艦に勤務する海軍軍人の病気治療や保養を目的に設置されたものだが、早い段階から日本人の患者を治療することを想定していた。初代ロシア病院(安政五/1858年~文久元年十月九日/1861年)は、亀田村の亀田川近くの400坪の敷地内に24坪の養生所(病院)、附属建物として湯飲所(8坪)と勤番詰所(6坪)の三棟が建てられ、バーニャ(サウナ)やパン焼窯も備わっていた。だが、病院は手狭で、医師が宿泊する余地もなかったため、ゴシケーヴィチ領事(在任期間1858~1865年)は別の場所に病院建設用地を求め、箱館奉行との交渉を重ねた。

二代目ロシア病院(文久二/1862年~慶応二年三月二十日/1866年)は、新たに1200坪を借り受け、領事館(現ハリストス正教会敷地)の東隣り(現聖ヨハネ教会敷地)に完成した。建物内には、通院患者のための診察室1、4人部屋から7人部屋まである病室10、ロシア人士官及びマトロス部屋として各1のほか、調剤所、台所、パン焼所、日本人使用人のための部屋などが設けられた(註1)。日本人の通院・入院患者の費用は無料だった。初代病院の24坪の養生所は、二代目病院の完成を待たずして自火で焼失。二代目病院は台所からの出火により焼失し、この時日本人の使用人1名が焼死した。

初代医師アルブレヒト(Михаил Альбрехт 在函期間 1858~1863年)は、ドルパト大学(現エストニアのタルトゥ大学)を卒業したバルト・ドイツ人で、妻を伴い、ゴシケーヴィチ領事ら一行と同時期に着任した。奉行所への治療願いが最も多く、従来の日本人の医師の治療では治癒しないとされた病は梅毒と眼病だった。

二代目ザレスキー(Залесский 在函期間 1863~1866年)はフランスで梅毒の治療を学んだ医師だった。同志社大学の創始者新島襄は、函館の港から脱国する直前、長年患っていた眼病の治療をザレスキーから受けた(1864年)。のちに北海道で最初の職業写真家として名を成す田本研造は、凍傷が原因であろう、壊疽に罹った右脚の切断手術を受けた。この外科手術を施したのはザレスキーではなく、同病院の准医師(фельдшер)ピョートル・マトヴェーエフであったことが近年の研究によって明らかにされた(註2)。1866年にザレスキーは函館を離れることになるが、長崎のロシア病院へ移動するためか、それともイギリス領事館員がアイヌの墳墓を発掘して死体を盗んだ「アイヌ人墳墓盗掘事件」(1865年)に関与したとして、当時の函館ロシア領事から追放処分を受けたからなのか(註3)、詳しいことはわかっていない。

二代目ロシア病院は、1866年に焼失した後閉鎖されたと考えるのが妥当なようだが(註4)、明治5/1872年に再興されたとの説も残されている(註5)。1866年以降については、箱館奉行杉浦誠の日記から、慶応四年四月十四日/1868年、かねて約束していたロシア人医師(名前は不明)が在函館ロシア領事館通訳マレンダを連れて娘お登美を診察したことがわかっている。また、函館のロシア人墓地には1869年1月1日に函館で亡くなったウラジーミル・ヴェストリの墓があるが、彼の肩書は「在日ロシア帝国領事館医師」と刻まれている(註6)。

最後に、現在も函館の医療を牽引する「深瀬」家の兄弟がロシアと浅からぬ縁があったことに触れておきたい(註7)。長男深瀬洋春(1834∸1905年)は、アルブレヒト医師とザレスキー医師から西洋医学を学んだ日本人医師の一人である。1861年には、箱館奉行の主導で初めて実施された「出貿易」に向かうメンバーの一人として帆船「亀田丸」に乗り込み、訪問先のニコラエフスクで東シベリア総督カザケーヴィチを治療し、お礼に贈られた骸骨、オルゴール、麝香獣は函館病院の医学講義の教材となった。

三男深瀬鴻堂(1844∸1913年)は、開拓使立函館魯語学校のロシア語教師ヴィッサリオン・サルトフが1874年1月に急死したため、死因を究明するためアメリカ人医師エルドリッジが死体解剖することになると、日本人医師として立ち会った。1879年に「聖アンナ三等勲章」をロシアから授与された。

註1)新島襄「凾楯紀行」『函館市史 史料編』第1巻、函館市、1974年、855‐870頁。

註2)「函館最初の写真史(在日ロシア人の生活から)ニコライ・アムールスキー著(原暉之訳・解説)『地域史研究はこだて』23号(1996年)、103‐107頁。函館で1865年に生まれたとされるマトヴェーエフの息子ニコライは、日本で生まれた最初のロシア人。

註3)「ニコライの函館観(四) 五十年前の日本」『函館日日新聞』1911年7月10日(三面)。

註4)『函館市史 通説編』第1巻、1980年、680頁;醍醐龍馬「長崎稲佐ロシア海軍基地をめぐる明治初期日露関係― 借地交渉とその意義 ―」『スラヴ研究』 68号、2021年、48頁。

註5)『函館市史 通説編』第2巻、1990年、1368頁。

註6)馬場脩『函館外人墓地』図書裡会、1975年、111‐112頁。

註7)倉田有佳「幕末開港期から明治初年の函館でロシアと医学で結ばれた兄弟」『日ロ交流協会 会報』2024年12月号、3頁。

*ベリョースカクラブ最終回には、毎年恒例の茶話会も行われました。今年は、鮭のピローク(大きなロシアのパイ)をご用意し、受講生の皆様と1年を振り返りました。

* ベリョースカクラブは2026年度も開講します。詳細は決まり次第ホームページでお知らせします。