極東の窓

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函館の初代駐日ロシア領事館に海軍から派遣されてきた三人の「見習い水兵」

はこだてベリョースカクラブ

一般向け文化講座「はこだてベリョースカクラブ」の今年度第3回目の講話内容です。
テーマ:函館の初代駐日ロシア領事館に海軍から派遣されてきた三人の「見習い水兵」
講 師:倉田 有佳(教授)
※以下の講座内容は、担当講師の倉田有佳教授がまとめました。

主人公は、フョードル・カルリオーニン(Карлионин)、アレクサンドル・ユガノフ(Юганов)、アレクサンドル・マレンダ(Маленда)の三人である。いずれも「カントニストКантонисты」、すなわち、「誕生と同時に兵籍に編入された兵士の子」だった。幼少の頃から海軍に在籍していた三人は、本格的な和露辞典『和魯通言比考』(1857年ペテルブルクで出版)の写字生として著者のゴシケーヴィチのもとに送り込まれた。ゴシケーヴィチは、リトグラフ[石版]で印刷するに当たり、ロシア語の部分は印刷し、日本語の部分は空けておき、後から日本語と漢字を余白に書き込むつもりでいた。そのため、日本語を石板に書き写す写字生には日本語の知識が求められたのである。
三人はゴシケーヴィチから日本語を学び始めるが、途中で方針が変更され、写字生としての役目は不要となってしまう。しかし、三人の日本語能力を見込んだゴシケーヴィチは、語学の実地訓練のために彼らを日本へ派遣することを上層部に提案する。ほどなくして、「見習い水兵」の三人は「アスコリド号」に乗船した(1857年9月)。
1858年7月、「アスコリド号」は長崎に入港。長崎から函館へと三人を導いたのは、日露通好条約(1855年)や日露修好通商条約(1858年)締結時のロシア側全権代表を務め、戦略的視点から日本との友好関係構築を重視していたプチャーチンだった。長崎で三人と面会したプチャーチンは、三人を初代駐日ロシア領事館が開設される函館に派遣し、同地に留まらせれば、いずれ日本語通訳として働かせることができると考えた。こうして三人の「見習い水兵」は、領事一行の函館到着(1858年11月5日)前に「アスコリド号」で来函し、同艦の水兵に交じって領事館開設の準備を手伝い、三人だけが函館に留まったと推察される。
1860年9月に来函したロシアの植物学者マクシモヴィチの旅日誌(Reise Tagebuch)には、領事館には「風変りなドイツ人ヨハノフ」と「イタリア系カリオン」という二人の若者がいたことや、領事館付海軍士官ナジーモフが「船員下男」を置いていたことが触れられている。つまり、領事館にはユハノフとカルリオーニンがいて、ナジーモフ海軍士官の家で「下男」として下働きをしていたのがスウエーデン系のマレンダであろう。ロシア領事館開設の初期のメンバー15名の中の「下男4」についてこれまでほとんど着目されてこなかったが、4人いた下男のうちの3人が、三人の「見習い水兵」のことだと考えて問題ないだろう(残る1名の特定は今後の課題)。
今年のNHK朝ドラが植物学者牧野富太郎を取り上げているため、マクシモヴィチの名前を耳にすることが多いが、ドイツ系ロシア人(エストニア人とも)で、ロシア領事館付医師アルブレヒトと同じタルトゥ大学の前身のデルプト(ドルパットとも)大学の出身だった。日本滞在中に須川長之助という助手を付けたことはよく知られているが、1864年2月にマクシモヴィチが日本を離れると、長之助が採取した植物は、ニコライの後任のアナトーリ司祭の取次ぎによりマクシモヴィチに届けられた。アナトーリ司祭の帰国後は、東京のニコライがその役割を引き継いだようである。
さて、いよいよ三人も通訳として表舞台に立つことになる。カルリオーニンは箱館奉行が試みた「出貿易」を目的に「亀田丸」でニコラエフスクへに向かう一行の同行通訳(1861年6月~9月)、ユガノフは「ポサードニク号」艦長ビリリョフ(Бирилёв)の通訳(同年3月~9月)を務めた。この「ポサードニク」号は、艦船の修理を口実に対馬に半年ほど居座った(「ポサードニク号事件(対馬事件)」)。マレンダもこの事件の通訳として関与していたようである。日本語能力については、カルリオーニンは、「公官吏との会話では能力不足から難儀したが、民間人との意思疎通にはさほど問題にはならないレベルだった」。ユガノフは、日本側が筆談を前提に用意した漢文の書簡を読みこなせず、口頭でのやりとりとなった。
函館を離れた時期は、カルリオーニンが1864年頃、ユガノフは1866年頃で、マレンダは1871年か72年頃だった。マレンダは通訳以外にも、ニコライやアナトーリ司祭が日本人にロシア語を教える際の補佐も務め、学習者からは千葉弓雄ほか、「魯語通弁」となる者も現れた。
「見習い水兵」から「下男」を経て「通訳」を任されるまでになった三人は、幕末開港期から明治初年の函館のロシア領事館を裏方として支えたのである。
 1872年秋のカルリオーニンとマレンダの肩書は「臨時公使館の東洋語通訳」だったため、新首都東京に開設される公使館の立ち上げに関わっていたのであろう。
 露暦1875年8月20日に30歳で亡くなったカルリオーニンの墓は長崎稲佐の悟慎寺のロシア人墓地にある。肩書は、「Прапрощик Переводчик(陸軍准尉 海軍省の日本語通訳)」だった。ユガノフの消息は不明。マレンダは東京のロシア公使館通訳に上り詰めるが、若い頃からマレンダを知るニコライは、マレンダが亡くなった頃(「1886年あるいは1887年」)の日記に、「宣教団にとって有害な人物だった」、「マレンダよりも忌まわしい人間がいるだろうか」、「わたしに一言もなく外務省に行ってしまった!」、などとマレンダを強い調子で非難している。マレンダには日本人女性との間に生まれた娘エカテリーナがいたが認知せず、中井木(つ)菟(く)麻呂(まろ)(パーヴェル中井)の養女となった。自分本位の人間だったように思われる。
最後に船見町のロシア人墓地について一言。入口から右手に整然と並ぶロシア海軍水兵のかまぼこ型の墓石は、元は土盛りの墓だった。現在のような墓石を置いたのは、1862年頃から66年頃、つまり三人と同じ頃に領事館に武官として勤務していたパーヴェル・コーステレフ海軍大尉だった。 
 
※詳細は、倉田有佳「函館の初代駐日ロシア領事館に海軍から派遣されてきた三人の「見習い水兵」」『函館日ロ交流史研究会 会報』No.44(2023年)を参照されたい。