極東の窓

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「モスクワ郊外の夕べ」の歴史を学んで、ロシア語で歌ってみましょう!

はこだてベリョースカクラブ

一般向け文化講座「はこだてベリョースカクラブ」の今年度第7回目の講話内容です。
テーマ:「『モスクワ郊外の夕べ』の歴史を学んで、ロシア語で歌ってみましょう!」
講 師:鳥飼やよい(准教授)
「モスクワ郊外の夕べ」は日本でもある年代以上にはよく知られている歌です。あまりにも有名なので、我が校の合唱サークル「コール八幡坂」がめったに取り上げることはなかったのですが、縁あってこの2月9日(土)開催のロシアまつりで歌うことになり、久し振りに練習をし、学生のメンバーのほとんどがこの歌を初めて聞いたと言ったことには少しショックを受けました。
私が学生の頃はユーチューブもない時代で、ロシアのラジオ放送の録音をテープで聴いて勉強していましたが、当時「ラジオ・マヤーク」の時報に使われていたこの歌のメロディをよく耳にしていました。ロシアは広大で時差帯のある国ですが、どの地方でもラジオを聞くと「モスクワ時間の午後8時です」という風に流れてきます。すると人々は現地時間はさておき、「モスクワは今8時か」と思いながらこのメロディを聴いていたのだそうです。実はこの曲はかつて、メロディの演奏回数でギネスブックに掲載されたことがあるそうですが、時報のおかげもあるのかもしれません。とにかく、オンエア回数は世界一だったのです。
今日はこの歌を皆さんとロシア語で歌いたいと思いますが、その前にこの歌の歴史について少しお話ししましょう。日本ではロシアの歌というと「トロイカ」や「灯」のような民謡風の懐かしい感じの歌が好まれますが、それに比べると「モスクワ郊外の夕べ」はもう少し現代的な歌です。
作曲したV.P.ソロビヨフ-セドイは切手になるほどの有名な作曲家です。ある夏の好天のレニングラード(現在のサンクトペテルブルク)の夕刻に何気なく生まれたメロディだそうですが、本人はあまり気に入らずに、不運なことにしばらく机の引き出しの奥に置かれていたそうです。ところが幸運にも、1956年にモスクワで開催された第一回スパルタキアーダ(夏季国体)のドキュメンタリー映画の制作に際し、若者たちが憩うシーンで流れる音楽に選ばれたのです。しかし、歌い手の候補に挙がった当時の人気歌手マルク・ベルネスは歌えないと言いました。理由は歌詞でした。「『川は流れるが、流れていない。音楽は聞こえるが、聞こえてこない』とはどういう意味だ。『なぜ君はそんな風に横目で首を傾げて僕を見ているの』とあるが、女の人からこんな風に見られたら、歌詞の青年と同じく僕も絶句するだろうよ」と言ったとのことです。確かにM.L.マトゥソフスキーによる歌詞には少し意味不明なところがあります。そのはっきりと定義し尽くさない言葉が、歌の情景に広がりを与えている様にも思えるのですが。いずれにせよ、ベルネスはこの歌を歌わなかったことをあとでたっぷり後悔することになります。
次に候補に挙がったのはボリショイ劇場の歌手、キプカロでした。彼は情感たっぷりに男性らしく歌い上げました。ところがその歌い方はあまりしっくり来ずに却下されました。次にモスクワ芸術劇場の俳優トローシンが浮上しました。彼のシンプルに耳元に語りかけるような歌い方がこの歌の都会的な気分にぴったりでした。アレンジも工夫がなされて、男声の独唱に女声コーラスによる母音唱法のバックをつけることにしました。こうした紆余曲折を経て出来上がった作品が、今でも聞くことのできる「モスクワ郊外の夕べ」の完成形です。とはいえ、映画完成後にこの曲がすぐにヒットしたというわけではありませんでした。それには時間がもう少し必要だったようです。
1958年に、米国ルイジアナ出身の23才のピアニスト、ヴァン・クライバーンがチャイコフスキー国際コンクールで優勝しました。最高点数を取ったとはいえ、当時の敵対国アメリカの田舎からやって来た若造に、しかも栄えある第1回目のコンクールで優勝させてもいいものか、と関係者はフルシチョフに伺いを立てたのだそうです。すると、フルシチョフは「一位だったのなら、それを与えよ」と言ったそうです。コンクールの優勝後にヴァン・クライバーンはロシア各地で記念演奏会を行いました。帰国直前の最後の演奏会のアンコールで「モスクワ郊外の夕べ」を自作のアレンジで弾いたところ、大喝采と拍手が鳴り止まず、スタンディングオベーションとなりました。この曲のその後の爆発的な大ヒットのきっかけが作られたのはこの瞬間だったのかもしれません。これ以降、ロシア国内だけでなく世界的にも大人気を博し、今もなおロシアを代表する「ロシアの名刺」とも言える歌となって行ったのですから。
その後1964年に開設されたラジオ・マヤーク(ロシア語で「灯台」の意)の時報のメロディに選ばれたことで、世界中のロシア語学習者にとっても親しみ深いメロディとなったということもこの歌の持つ楽しいエピソードです。
それでは、これから歌詞を見ながらオリジナルのロシア語で歌ってみましょう。