学報 "МИЛЛИОН ЗВЕЗД"

学報"МИЛЛИОН ЗВЕЗД"

No.107 2021.04 "Миллион звезд" ミリオン・ズビョースト/百万の星

「ミーハー」って何?
ロシア極東連邦総合大学函館校 准教授 イリイン・ロマン

 外国語を学ぶ若い人は何よりもまず流行りの若者言葉を覚えたい。私も25年前、初めて日本に来た時に、日本人学生にスラングを教わった。その中では、「チョベリバ」と「チョベリグ」という言葉も覚えた。当時、流行語だったが、2年後また日本に来た時、「チョベリバ」と「チョベリグ」を使うと恥ずかしいと言われた。2000年以降、死語になったらしい。近頃のインターネット世界ではネットスラングの寿命はさらに短くなった気がする。昨年の秋、事務局の福尾さんに訊かれた。「ぴえん超えてぱおんの意味が分かる?」「さっぱり分からない」と私は答えた。家に戻って、高校生の娘に訊いたら、「わかる、わかる。とても悲しいことという意味だ。ただ、少し前に流行っていたが、もう古い」。私は首をかしげた。言葉は生き物のように生きていて、時代と共に変わるのだが、半年で古くなるとは!
 若者言葉は早死にする傾向がある一方で、長生きするフレーズもある。私の娘が中学生になった頃から彼女とのロシア語の会話で「イケメン」がたびたび出てくる。ずっと前からよく聞こえてきた日本語の「イケメン」だ。いまどきの中高年の日本人もよく使っている言葉であるが、調べてみると、日本では2000年前後広く使われるようになった言葉だそう。若者言葉として一瞬で流行して、「イケメン」は2021年の今もよく使われるものである。では、なぜ私の子ども同士がロシア語で会話しているのにわざわざ日本語の「イケメン」を使うのであろうか。「イケメン」は「イケてるメンズ」という言葉の略語らしいが、「イケメン」に一番近いロシア語はкрасавчик(美男子)になる。私的には結構意味の近い言葉であると思うが、やはり子どもたちは「イケメン」はロシア語のどの言葉にも匹敵しないような特別な意味をもっているのだろう。
 では、ロシア語のスラングはどうだろうか。英語の単語を短くし、末尾に「る」が付いた、動詞化したパターンが多い日本語だが、(ネグる、ミスる、メモるなど)、ロシア語の場合、語末に-ть を付ける。でも、今までロシア語にはこのような単語が非常に少なかった。だが、最近、増えている。例えば、хейтить(ヘイチチ)は英語の“to hate”から発達した言葉で、「ネット上で差別的な言葉を使う」、また、чилить(チーリチ)は英語の“chill out”から生まれ、「くつろぐ、のんびりする」という意味だ。шеймить(シェーイミチ)は英語の“shame”から出来て、意味は想像できるとおり、「辱める」。人の真似する奴については байтить(バイチチ)になった。英語のスラングで to bite one’s style 「真似る」から発達した。
 ロシア語に入ってきた日本語の単語のうち、「くん」と「ちゃん」が目立つ。やはり、発達した源は日本のアニメや漫画が好きなロシア人からである。だが、今は日本のアニメや漫画に興味がない人でも使う言葉だ。日本では必ず名前などの後に付けることが一般的であるが、ロシアの若者はそのまま使うのだ。最初のうち、「彼氏」と「彼女」という意味になったが、現在のスラングではもっと広い意味で「男の子」と「女の子」になった。当然、男の子には「くん」を、女の子には「ちゃん」。
 数年前から сорян (ソリャン)という単語はネットの書き込みだけではなく、普通の会話でも広く使われるようになった。英語の“sorry”からロシア語に入ってきて、軽い程度の謝罪を表す言葉だ。本当に謝らなければ場面ではロシア語の標準語извини(те)だが、сорянは日本語の「わりぃ」に相当するだろう。若い世代では当たり前になってしまったネットスラングだが、高年代には意味がさっぱり分からない人が多いと思う。ロシアの年配の人に「сорян とは何ですか」と訊いてみたら、「アルメニア人の苗字だろう」という答えが出ると思う。だが、若者言葉に拒否的な大人が多いとは言えない。むしろ新しい言葉の意味を知りたがる人が少なくないと思う。しかし、大人は会話で若者言葉を使うと(特にネットスラング)、若者が違和感を感じるだろう。
 終わりに、私は学生のころに本か、テレビかで日本語の「ミーハー」という言葉に出会った。ロシア人にとって覚えやすい単語なので、すぐ覚えた。今回、若者言葉の話をここに書くので、「ミーハー」とはどういう意味かうちの子供に訊いた。「知らない。もしかして、ロシア人男性のミハイルの愛称?」と子どもは私を笑わせた。

人事

 1997年から24年間にわたり、函館校で教鞭を取られたパドスーシヌィ・ワレリー教授が3月31日で退職されました。英語とロシア語を担当し、いつも穏やかな微笑みと素敵な声で、インテリジェンスあふれる授業は人気がありました。
 パドスーシヌィ教授の後任として、お二人の非常勤講師が加わります。英語はウィリアムズ・マイケル先生、ロシア語はイリイナ・ソフィア先生が担当します。
 また、空席だった学務課長には教務・学生係の福尾瞳さんが昇格します。
 パドスーシヌィ先生、長い間お疲れさまでした。そして新しいみなさま、これからよろしくお願いします。

24年間ありがとうございました
教授 パドスーシヌィ ワレリー

 すべて始まりがあれば終わりがあります。
 24年前、短期間の予定で私はこの学校に赴任してきました。ここでの生活が自分の人生において胸躍るひと時となることを思い描いて。
 私にとって、それはまぎれもなく胸躍る旅の始まりとなりました。けれど予想に反して、決して短い期間ではありませんでした。 しかしながら、すべての旅と同じく、この旅ももうすぐ終わろうとしています。感謝の気持ちを込めて、ここで過ごした年月を振り返っています。
 私の記憶の中には、今も多くの素晴らしい若者たちの姿があります。教壇に立つ私の授業に聴き入る学生たちの姿をいつまでも忘れることはないでしょう。自分の仕事は教えることそのものにあるのではなく、他の人が学ぶのを助けることにある、と私は常々考えていました。でもそれは、私から学生への一方通行ではなく双方向にあり、学生たちからもいつも価値ある新しいことを学んだのでした。 そんな学生の皆さんに心から感謝しています。
 親愛なる同僚の先生方やスタッフの皆さんには、友情と連帯に心からお礼申し上げます。 みんなで楽しく笑いあい、喜びを分かちあい、そしてぶつかり合ったことさえも忘れないでしょう。 皆さんからの思いやりや温かい言葉にお礼申し上げるとともに、共に過ごせたことをたいへん嬉しく思います。

 そして最後にもうひとつ。
 私たちは皆それぞれオンリーワン。 私たち一人一人が唯一無二なのです。 他人との比較ではなく、より良いかそうでないかは自分自身の問題だと思うのです。
 より良い自分を見つけるための胸躍る旅の途中に私はいます。その旅の仲間として私の人生の大切な節目に皆さんが一緒にいてくださったことに心から感謝します。
 ここで過ごした日々は心深く刻まれています。
 24年間ありがとうございました。

卒業生からの寄稿

ロシア漬けの4年間をふり返って
ロシア地域学科 相川 将太

 振り返ってみると、正直4年間の大学生活は本当に長くもあり、短くもある、そんな時間でした。入学したばかりの頃は、全くロシアに関する知識がなく、正直やっていけるだろうかと不安がありました。またロシア語は本当に複雑な言語で戸惑いましたが、函館校の先生方に熱心に指導していただいたおかげで理解するのが楽しくなり、文法、語彙、会話、聴解力が向上することができたのは大きな成果です。3年次のウラジオストク留学期間中に、国家試験であるロシア語能力検定試験に合格できた時は本当にこの大学に入学してよかったと実感しました。
 函館校の最大の思い出といえば、先述のウラジオストク本学への留学を思い出します。授業では世界各国から集う留学生と共にロシア語を学び、ロシア語で交流を深めたことが思い出です。授業はほぼ毎日宿題があり、小テストもたまにありました。学習内容においては函館校でついていけていれば、問題無いレベルでしたが、現地で過ごした三か月は自分のロシア語力を高めることができました。初めての寮生活や現地到着直後の諸手続き、不慣れな文化・習慣に不安もありましたが、ロシア語で意思疎通を図り、自分で問題を解決できた時はロシア語をしっかりと学習してきたんだと強く実感することができました。
 またJT海外インターンシップに参加し、モスクワ・サンクトペテルブルクの二都市を訪問した時はロシアという国の広さを実感しました。特に印象残っていることは、函館校に入って一年生の頃から教科書でモスクワの地下鉄の駅の名前や、通りの名前を学習してきていたため、実際にその場所を目にし、その場所に立てたことで嬉しい気持ちになったことです。美術館や博物館、地下鉄、街並みどれを見てもロシアは芸術を感じる点があって、美術に関心がない私でも、ロシアには魅力を感じざるを得なかったほど記憶が鮮明に残っています。
 ロシア語を4年間学習して、4年生はたったの4人で卒業することになりましたが、この4人だからこそ本当に密度の濃い授業ができたと思っています。同学年の皆は行動力、発言力、知識もありました、だからこそ先生方も沢山のことを教えてくださろうと力を尽くしてくれたと思っています。その分、授業や課題が大変すぎることもありましたが、今となってはそれですら良い思い出かなと思っています。ロシア語の学習は正直厳しく、何度も投げ出したくなりました。でも4年間やりとげ、この大学を卒業できることは誇りです。春からは新社会人として胸を張って頑張りたいと思います。今までありがとうございました。楽しかったです、До свидания!

「自由」を学んだ4年間
ロシア地域学科 平原 響

 私は高校3年間で「忍耐」を学び、大学の4年間では「自由」を学んだと言って良い。大学では本当に多くのことに挑戦した。授業でロシア語の学習に励むかたわらで、ある時は歌を歌い、学生記者として函館市内を駆け回り、役者になり月一で演劇に出演し、落語家になってロシアで公演を開いたり、またある時は釣り人になって...あげればキリがない。こうした活動にはただ闇雲に首を突っ込んでいたわけではなく、全て自分の考えを持って参加していた。だから必ずそれぞれの活動で得るものがあり、失敗することもあったけれど、その度に反省をして次に活かす力がついた。
 また、4年間でたくさんの場所を訪れ、見聞を広めることもできた。4度のロシア訪問、マレー半島の縦断、クルマと電車を使って北海道を2周、そして極め付けはクルマで三重の実家から下道だけで函館に戻る、という苦行としか思えないような旅もした。自分で計画を立てて行動し、時には時間を気にせずあてのない移動もした。「日本とロシア」だけにとらわれがちなこの大学でも、何にも縛られることのない広い視野で物事を見る力を養うことができたのは自身の大きな成長点である。
 こう見ると、楽しく愉快な事ばかりであるように見えるが、壁にぶつかり迷うこともあった。毎年の論文作成、進路決定までの道のりなど、大変だと感じた時期も多くあった。特に4年間学んだロシア語は難しく、習得出来たとは言えそうもない。授業が早すぎてついて行けずに泣き出したり、会話の内容が理解できずに授業の途中で匙を投げ、先生を困らせたこともあった。だがつい最近になって、授業で分からないことがあると「悔しい」と再び思えるようになった。今も悔しい気持ちを持てているということは、まだまだこれからも向上の余地があるかもしれない。ロシア語はこれからも続けていくつもりである。
 ここまで長々と書いてきたが、私が学んだ「自由」は何かというと、悩んだり迷ったり、時に苦しい出来事に取り組み続けて、その束の間にする遊びや旅を通じて感じられるのが最大で最高の「自由」であるということだ。だからこそ私は、この先も悩み、迷い、時に苦しく感じる出来事に取り組み続ける。
 最後になるが、実家から離れた函館で学生生活を送ることを許してくれた両親、そして大学の友人たちと函館で繋がることのできた全ての方々、先生方や事務の方々に感謝し、大学生活を終えることとする。

4年間を振り返って
ロシア地域学科 竹内 のぞみ

 かつて、日々ロシア語学習に追われる自分を「滑車をひたすら回しつづけるハムスター」と比喩した学生がいた。私の4年間の大学生活の例えとして、彼の言葉を拝借したい。
 4年前の春、函館校の学習カリキュラムの過酷さを露程も知らずに私は函館校という滑車に乗り込んだ。次から次へと繰り出される課題の提出期限に追われ、ロシア語を消化・吸収する毎日が始まった。入学以前は一人で気ままに勉強し、のらりくらりとした生活を送っていた私にとって、函館での生活は様々な犠牲・自制を要するものであった。しかし辛くはなかった。
 函館に来るまで羞恥心などから極力人との関わりを避けていた私は函館で、先生がいて、クラスメイトがいることのありがたさを身に染みて感じた。学校では、自室にこもって一人で教科書と対峙していたのでは得ることのできない情報を手に入れることができる。私にとっては、先生がふと口にするロシア語の一言さえも得難い貴重な情報だった。それらをメモして帰宅後に自分でも唱えてみると、そのロシア語のフレーズが自分の口の中でも同じように響き、どこかくすぐったいような気持ちになった。先生の声を何度も耳の中で反芻し、同じように発音できるようになるまで繰り返し練習した。このようにしてロシア語が少しずつ自分の中に積もっていくのは純粋に嬉しく、ロシア語のためならいくらでも時間をかけたいと思えた。
 この4年間、エカテリンブルグ国際青年キャンプ、サンクトペテルブルク・モスクワへのJTインターンシップ、プーシキン大学とウラジオストク本学への留学実習、北方四島交流など書ききれないほど沢山の機会に恵まれたが、それらと同じくらい函館校で受けた毎日の授業が私の生活に彩りを与えてくれていた。
 人間関係にも恵まれた。こうありたいと憧れに思える豪放磊落な先生、頼りになる先輩後輩、共に頑張りたいと思えるクラスメイトがいた。毎日の課題と授業の予習復習に加えて様々な行事に忙殺され、滑車の中を走る体力が尽き、慣性の法則と遠心力だけで勢いを失いながら虚しく回る滑車にただ身を委ねることしかできない時もあったが、それでも滑車が完全に止まってしまう前に新たに走り出すことができたのは、そういう人たちがいたおかげである。
 走り続けられたとは言え、滑車の位置は変わらない。それにもかかわらず滑車を走る私の目に映る景色が4年前とは違って見えるのは、ロシアの言語や文化の学習を通じて様々な物の見方を学んだからだろう。
 「Век живи, век учись!(生涯勉強)」と言うように、函館校を卒業し社会人になっても、私たちは色々なことを学び続けなければいけない。しかし教えてくれる人がいて、共に学ぶ仲間がいて、時間の制約なく勉強に打ち込める日々は、もうこないかもしれない。ひょっとすると人生で最後だったかもしれないその日々を、函館校で過ごすことができて本当によかった。
 4年間様々な面から支えてくれた両親、多方面にわたる知識で絶えず私たちにときめきを与え続けてくださった先生方、何かと気が滅入りがちな私たちに常に気をかけてくださった事務の先生方、そして自由奔放な私を受け入れつづけてくれた友人たちに改めて礼を言いたい。

卒業にあたって
ロシア地域学科 和田 将英

 ロシア極東連邦総合大学函館校での4年間は僕にとって驚きと新鮮さの連続でした。記憶を振り返ると、まだこの大学に入学したてで、ロシア語の「ロ」の字も理解していなかった1年生時、当時は覚えるのに苦労したキリル文字をタチヤーナ先生に1文字ずつ丁寧に教えていただいた授業風景が蘇ります。英語のアルファベットを反転させたかのような文字や英語と同じ形なのに読み方が違う文字などに僕や同じ1年生の仲間たちは苦労していました。ロシア語の中に「Р(エル)」という文字があります。形は英語のPに似ていますが、実際は英語でいうRにあたる文字です。このような文字がロシア語にはいくつかあり、よく読み方によく混乱していました。それが4年間どっぷりロシア語に浸かった結果、今では逆に英語のPを見たときに逆に「Р(エル)」と発音してしまいそうになります。それぐらい僕の中でロシア語の占める割合は大きくなりました。
 2年生時にはロシア語が世界最高難易度たる所以である格変化の学習が本格的に始まり、何度も心が折れそうになりました。それでも挫けず学習を続けてきたから今のこの時があるのだと思います。3年生時のウラジオストク留学時には現地の「生きたロシア語」に触れることができ、さらに高度な言語体験をすることができました。
 ロシア語以外でも、この4年間で僕はたくさんのロシア人の方々と知り合ったり友人となったりすることができました。極東大の先生方をはじめ、色丹島やモスクワ、ウラジオストクで出会ったロシア人の方々はとてもユニークで、僕たち日本人とは大きく違う価値観やメンタルを持っていて、街中ですれ違う一般の方ですら僕の人生観に影響を与えてくれました。彼らとの関りは全く飽きることのない新鮮な時間でした。
 この学校で過ごした4年間は今後の人生の中でも色あせることのない経験となるでしょう。その時間で身に刻んだロシア語、ロシア人との交流、ロシアという国の空気を今後の人生で活かしていきたいです。最後に、ロシア人の先生方に4年間呼んで頂いた「Юрий(ユーリー)」というロシア名はこれからも大事にしていこうかと思います。

2年間の学生生活を終えて
ロシア語科 川村 美保子

 私はロシア文学が好きで、社会人から転身して学生となりました。入学当初の目標は「もっとロシアのことを好きになりたい」、「ロシア人が言うプーシキンの詩の美しさを理解したい」の二つだったのですが、概ね達成できたのではないかと思います。
 授業を通じて様々なロシアの文化を学びました。絵画や歌、スラブ神話や歴史、文学、風習、衣食住、映画など、私にとっては堪らないほど楽しい時間でした。その中で、入学以前に点として知っていた知識が線として繋がることが何回もあり心が震えました。特にトルストイの『イワンの馬鹿』のエピソードが印象に残っています。19世紀末にはまだ実用化していなかったはずの戦闘機(飛行機)самолётという言葉がなぜ存在し、トルストイが書くことができたのか。ずっと疑問だったのですが、それはсамолёт という単語が“自ら飛ぶ”という語幹で成り立つ言葉であること、また「空飛ぶ絨毯」という言葉がロシア語ではковёр-самолёт であり、飛行する物体の概念が昔から存在していたから、ということを知り納得しました。その他にも、この学校へと飛び込んでみなければ学べない事がたくさんありました。おそらく日本国内で1番私の知りたい知識が学べる場所であり、充実した日々の2年間となりました。
 ロシア語の文法は難しく、まだ私には初級程度の知識しかありません。しかし簡単な日常会話なら話せるようになれました。独学では絶対に無理でした。ネイティブの先生から毎日ロシア語を聞き、会話する機会が授業内外で用意されていたおかげです。またクラスメイトにはいつも助けられました。ウラジオストクの留学ができなかったことだけが心残りですが、いずれ必ずロシアへ行きたいと思います。そしてこれからもっとロシア文学を読み、この2年で学んだことからもさらに知識の線を伸ばして自分の人生を豊かにしていきたいと思います

ロシア語のある世界
ロシア語科 小栗 大和

 人一人がその一生で担える専門分野には限りがあります。生業にするともなれば、ただ一つの道を究め正しく職人となる選択を、世間は理想的な姿と捉える節があります。青少年は進路選択を迫られると期待に応えるべく分かりやすい理想の職業を示すや否や、それを選ぶ正当性をなけなしの人生経験から裏付けたがりがちです。私は例にもれずそうした、というよりはそうしたかった人間でした。そしてその兼ての夢は、ロシア語を究めて翻訳家などを営む道ではなく、コンピューターグラフィックスの道でした。ロシア語を学ぶべくこの学校へ入ったのは、それまでの経緯とは関係が無さ過ぎて傍から見れば多少では済まない暴挙だったでしょう。事実私がロシア語を学び始める道理は、一芸術作品に感化されただけという些細なものでした。特に語学に優れた才能があった訳ではありません。それでも踏み切ったのは、人生に変化を求めてのことです。自分が歩んで然るべき道ばかりを歩み、一つの道を究めんとすることを言い訳に世界への視野を狭める自分自身に私は辟易していたのでした。つまらない人間になりたくなかったのです。自分にふさわしくないけれど純粋な好奇心がもてる、そんな物事を学ぶことでむしろ私が歩んで然るべき道を自分自身で分からなくして枷を外してやる、教養をつけ人生を潤す下手の横好き活動の始まりがこの2年でした。
 結果はどうでしょう。無事にどころかそれ以上に満足のいく形で一つの節目を迎えました。無論精一杯私なりに意欲を保ち続けられたのは、支え満たし続けてくれた学校の稀有な環境ありきのことです。それを鑑みても人の原動力は不思議なもので、思い返すとこれ以上ない程に自然体で過ごした日々でした。
 元よりこれといった明確な職業に役立てるために学び始めた訳ではない私はロシア語と共にする今後の展望に計画性が無いのが実情で、業や術として実益をもたらそうと逸るのはいささか時期尚早な身です。しかしそういったままで愛する母校から旅立つのは何も途方に暮れる為ではなく、歩むべき道を歩まずかつての様に再びまた一つ己の枷を外し新しい世界に踏み入る為です。私がどこへ挑もうと二度と一人になることはないのでしょう。ロシア語が、私の人生を縛るものではなく、共に寄り添うものとして傍に、温かい記憶と共にあります。真に自由な学びを私に教えてくれたその存在は、これからも私に自由な世界を見せてくれると信じています。

学生・科目等履修生からの寄稿

卒業後1年を経て
科目等履修生 阿部 眞澄

 私は定年退職後の2018年に来函し当校ロシア語科に入学、昨年卒業しました。その際しばらくこの地に留まろうと決めました。当校には卒業後も利用できるプログラムや公開講座等が用意されており、慣れた環境下でもう少し勉強を続けたいと思ったからです。
 2020年度は科目等履修生となり、2年生の科目を再履修しました。同じテキストを異なる先生から教えて頂くという貴重な体験は新鮮でしたし、理解が深まったように思います。
 夜間の市民講座も受講、こちらは上級コースで私には少し背伸び感がありました。でも和やかな雰囲気の中、拙いながらロシア語での会話練習もできて、楽しく学べました。
 時には学校行事にも参加させて頂き、再度学生時代の緊張感を味わうことができました。
 ベリョースカクラブでは、先生方による様々なテーマの講演を興味深く拝聴しました。
 コロナ禍という想定外の事態の最中、恐らく東京の諸教育機関より早い段階で対面授業に戻して頂けたことも有難く、函館に残っていて良かったと思えた点のひとつです。
 ロシアと縁が深い函館にはロシア語がしっくり馴染むように感じます。その上、ロシアの雰囲気が色濃く漂う当校でロシア語を学ぶことが特別な意味を有するようにも思え、とても充実し幸せな1年でした。
 しかし大半の荷物を東京に置いたままの生活が次第に不便になり、開催不透明ながらオリンピックボランティアの活動予定もあって、今回ひとまず引揚げることにしました。
 私のロシア語能力は未だ初歩レベルです。人生での残された時間を鑑み、生活および学習拠点、自分に適したロシア語学習の進め方、これからの時代に於ける外国語習得の意義等々じっくり考えたいと思っています。
 とやかく言う前に単語を覚えろ、と何処かから叱責する声も聞こえて来そうですが。

はこだてロシアまつり
ロシア地域学科 1年 鈴木 貴大

 今年度のはこだてロシアまつりはコロナ禍の中、開催されました。私はその中でマースレニッツァの寸劇に参加しました。そもそもマースレニツァとは冬の神であるモレーナという巨大な藁人形を燃やし、春を祝うロシアの伝統的なお祭りです。一年生は全員劇に参加することが決まっていたので、私はモレーナの手下(小鬼)の役を演じました。
 本番の一週間前から藁を編み始め、大きなモレーナの藁人形を完成させました。この作業は藁をひもで結ぶ時に強い力が必要なので、デルカーチ先生の提案で手にガムテープをまいて作業するなど工夫して行いました。モレーナが完成したあとは寸劇の練習です。手下達の立ち位置やセリフをみんなで決めたり、会場に響き渡るような大きな声を出せるように放課後に何日も練習をしました。また、誰がどのお面を被って手下を演じるのかを決めました。このお面は過去にこの寸劇を行ってきた先輩たちが作ったものです。お面の中には鼻水をたらしたものや「凍るくん」など冬を象徴したお面のほか、熊などの動物のお面があります。誰がどのお面をかぶるのか話し合い、役についてクラスメートと考えました。また練習の合間、先生やクラスメート達と雪合戦をして、まるで演じる冬の小鬼のように春を迎える前に冬を楽しみました。
 さて、ついに本番を迎えました。今年度はコロナ禍でイベントなどがほとんどなかったために、たとえお面を被っていたとしても、大勢の前に出ることに私はとても緊張していました。岡島くんやデルカーチ先生の「やるぞ!」という前向きな姿勢を見て、私も頑張ろうと身が引き締まる思いでした。寸劇が始まり、モレーナからの指示で冬の宣言を岡島くんが大きな威厳ある声で読み上げ、それに続く形で私たち手下三人が会場を盛り上げました。緊張していたはずですが、いつもより声が出ているように感じました。練習を超える完成度だったと思います。会場に足を運んでくれたお客さんとともに私自身も寸劇を楽しみました。
 来年はコロナ禍が収束し、今年度できなかった寸劇以外のキオスクでの雑貨販売やカフェでボルシチなどの提供をやってみたいです。