学報 "МИЛЛИОН ЗВЕЗД"

学報"МИЛЛИОН ЗВЕЗД"

No.98 2019.1 "Миллион звезд" ミリオン・ズビョースト/百万の星

ロシアにおける日本年と日本におけるロシア年―文化・文学の交流―/
ロシア極東連邦総合大学函館校 准教授 スレイメノヴァ・アイーダ

  年末の時期に入り、今年1年を振り返ってみたい。
 2018年は、「ロシアにおける日本年」及び「日本におけるロシア年」という年であり、様々な分野(政治、経済、文化、科学、教育、青年・スポーツ・地域間交流等)では、両国国民間の相互理解をより深くするために興味深い行事が行われた。また、2018年は、ロシアを代表する文豪、レフ・トルストイ生誕190年記念でもあり、日本を代表する近代短歌の女流歌人、与謝野晶子生誕140年記念でもあった。晶子の誕生日は12月7日である。
 明治時代文学の代表者となった与謝野晶子は、ロシアの作家と共通点が多いが、一番重要なポイントは戦争に対する彼らの態度だと言える。トルストイの日露戦争反対の論文『悔い改めよ』(«Одумайтесь!», 1904年)は、幸徳秋水、堺利彦らの『平民新聞』に掲載されて社会主義者を鼓舞し、与謝野晶子の『君死にたまふことなかれ』 («Не отдавай, любимый, жизнь свою!»)、『ひらきぶみ』 («Открытое письмо»)執筆の契機となった。明治時代にロシアから来た反戦論争は日本で受け入れられて、トルストイの思想と哲学と違っていた与謝野晶子の態度は、まず、一般の女性が好きな弟を戦場に行かせたくない気持ちから生まれたのではないか、と思っている。実は、晶子は自分自身でそんな大騒ぎを起こすことになるとは考えていなかったと言ってもいい。でも、この反戦の詩とエッセイは彼女のフェミニズムへの道の一歩となっている。

 1912年には、晶子は一人でヨーロッパへ向かって、日本の敦賀港から出発して、ロシアのウラジオストク港までたどり着き、ウラジオストクでシベリア鉄道の列車に乗り換えて、そこからモスクワ、ワルシャワを経由してパリまで長い旅行をした。1912年の夏と秋には、パリで夫の与謝野鉄幹と一緒にヨーロッパの文化を学ぶため留学した。その留学の成果は、与謝野晶子自身は、西洋の男女平等がどの程度のレベルまで上がっていたか理解できたことにあったと思う。 実は、男女平等の問題に対するトルストイと与謝野晶子の態度は異なっている。トルストイの方は、女性が男性のように働いていること、様々な分野で活動していることに対して反対していた。初期のフェミニズムが大嫌いだったと言わなければならない。日本ではそのトルストイの考え方について、研究論文でのみ討論されている。
 とは言え、他の文学・教育の問題にはトルストイと与謝野晶子は妥協点が見出せると思われる。例えば、トルストイは子どものためにたくさんの作品を作ったり、ヤースナヤ・ポリャーナという自分の領地に、近くの村の子供たちのために自費で学校を建てたり、妻のソフィアと一緒に13人の子供を育てたりしていた。晶子も、鉄幹との間で11人の子供を産んで、育てた。そして、日本の子供向けの童話も作った。ロシアでは、与謝野晶子の詩と短歌が有名になったが、童話についての情報がまだ少ない。
 10年前に、与謝野晶子の童話集『金魚のお使い』をロシア語に訳したことがあるが、この作品集に収められている一つの話である「ニコライと文ちゃん」«Святой Николай и Бун-тян»もロシア語に訳し、この話はウラジオストク日本センターと太平洋艦隊ドラマ劇場の協力で沿海地方ラジオ放送局で放送された(演出家はスタニスラフ・マリツェフ;放送局用のシナリオライターはニコライ・ピンチュック)。これは、文ちゃんという子供が、ニコライ堂という明治時代の東京で一番大きな建物をどのように見ているかという話であるが、ロシア人の聴衆はニコライ堂だけではなく、いたずらっ子の文ちゃんに関心を示した。
 その他、与謝野晶子の童話は、私が教えていたウラジオストク本学の大学生と与謝野晶子記念文学会で朗読されたり、晶子や他の日本の女性作家の作品が訳されたりした。日本の童話は、民話と違って、ロシアではまだ広く知られていないが、ロシアの読者は関心を示しているため、今後も童話の翻訳を続けることが必要である。
 さて、2019年も偉大な作家と詩人の生誕記念の年となる。アレクサンドル・プーシキン生誕220年、ニコライ・ゴーゴリ生誕210年、アンナ・アフマートワ(女性詩人で『レクイエム』などの作品がある)生誕130年、そしてウラジーミル・ナボコフ生誕120年である。いずれもロシア人にはよく知られている作家で、私自身、函館校の「ロシア文学史」の授業の中で触れるつもりでいる。これらの作家の作品や人生について、ロシア語学習者はより深く知る1年となることだろう。

学生からの寄稿

プーシキン大学短期留学に参加して ロシア地域学科2年 竹内 のぞみ

 昨年8月27日から9月27日までロシア連邦教育科学省・ロシア連邦文化交流庁主催の第8回プーシキン大学ロシア語短期留学プログラムに参加した。日本各地の大学でロシア語を学ぶ80名の日本人学生が集まり、函館校からは私を含めて3名が参加した。初めての語学留学、寮生活など不安はあった。しかしモスクワに向かう飛行機の中で参加者の人と話すうちに緊張が和らぎ、あまり気負わず素直に楽しもうと前向きな気持ちで挑むことが出来た。
 モスクワに着いた翌日にクラス分けテスト(作文・会話)が行われ、参加者が5クラスに分けられた。
 次の日からさっそく授業が始まった。月曜日から木曜日まで90分の授業を一日に3コマ受け、読解や文法問題、発音練習、詩の暗唱など、ロシア語に懸命に取り組んだ。時には気象予報士になったつもりでロシア各地の天気予報をしたり、警察官や政治家などの役になって日々のストレスとその解消方法についての討論を行ったりもした。
 校外学習ではノヴォデヴィチ墓地を散策した。授業を通して強く感じたのは、単語や例文を覚えることだけがロシア語の学習ではないということだ。ロシアの詩を読み、歌を聞き、映画を見て、それらを通してロシア人の考え方を知ること。それこそがロシア語学習の最終目標であると実感した。
 授業のない金曜日から日曜日には、ヤースナヤ・ポリャーナやウーグリチなどモスクワ近郊の町をいくつか訪れた。どの町も興味深かったことに違いはないが、その中でも心に残っているのはスーズダリだ(1992年にユネスコの世界遺産に登録)。モスクワから北東に約200キロのこの小さな町には今でも色鮮やかな木造住宅が立ち並び、普通の民家の前でも写真を撮ろうかと思わず足をとめてしまう。ロシアの田園風景の中にぽつりぽつりと散在する小さな教会の姿には、心にこみあげてくるものがあった。町を縫うように流れるカーメンカ川を臨む小さな丘に登ると、川沿いにはヤギやウシが放牧され、その向こうにはクレムリンと教会の玉ねぎ型の屋根が見える。フォークロアの世界にいるようだった。日の出からほどない時間に、この丘に腰を下ろして陽の当たり方が変わってゆく町の風景を眺めていると、草のにおいや鐘の音、朝の肌寒い空気が身体中に沁み込んでいくようだった。
 この他、留学中に受けた刺激の一つとして他大学でロシア語を学ぶ学生との出会いが挙げられる。人それぞれロシア語学習を始めた経緯も違えば、興味も違う。彼らを通してロシアという国の奥行きの深さや多面性に再度気づかされ、新たに興味を掻き立てられることが多々あった。設備もあまり良いとは言えない寮で一カ月間楽しい時間を過ごせたのもまた、彼らのおかげである。
 今回の短期留学を振り返ってみると、実に有意義な一カ月であった。見聞きしたことがあまりに多く、それらすべてを吸収して自分の中に取り込むことができたとはまだまだ言い切れない。今後のロシア語学習のなかで少しずつ噛み砕いていきたい。
 最後に留学をサポートしてくださったロシア旅行社の方、プーシキン大学の先生、また参加者の方々に改めて感謝を述べたい。

人生でもっとも濃かった1カ月 ロシア地域学科2年 平原 響

 私は2018年8月末から約1カ月間、函館校からの推薦を受け、ロシア連邦教育科学省・ロシア連邦交流庁主催の「第8回ロシア語学短期留学プログラム」に参加し、モスクワのプーシキン大学で日本人大学生約80名と共に渡航し、勉強しました。JT並びに学校には、今回の留学の機会を奨学金という形で支援していただき、本当にありがとうございました。
 今回のモスクワ留学ではやりたかったことの8割以上を達成できた、と言えるほど充実した時間を過ごすことができました。モスクワを訪れるのは初めてだったということもあり、見たり聞いたりするもの全てが新鮮で、今でも強く印象に残っています。
 現地ではプーシキン大学に併設されている学生寮で生活しました。寮はおそらくソ連時代に建てられたであろう古いもので、水回りやホコリなどの問題と闘いながら毎日を過ごしました。大学の授業は全てがロシア語で行われました。レベルも高く、授業中に理解できなかった単語を先生に質問するとその説明にも分からない単語が出てくるなど、毎日ついていくのに必死でした。それでも先生方には優しく接していただき、クラスメイトとも助けあいながら無事に1カ月のカリキュラムを終えることができました。
 モスクワには数えきれないほど観光名所があり、それを見に行くのも楽しかったのですが、ただ目的なく中心部を散策しているだけでも飽きない街でした。日本よりもはるかに広い道幅や大きい建物に驚き、地下鉄の豪華さに圧倒されたり、公園でアイスを食べながら周囲の人たちを観察してみたり、たまたま見つけた美術館に入ってみたり、路上ライブを聞いたり…。モスクワで過ごしている間は、日本よりも時間がゆっくりと流れているように感じました。

 また時間帯や天候によって街の雰囲気が変化していて、それを感じるのも心地よかったです。そして市民生活の中には文化・芸術が浸透していて、街角のいたるところに劇場があり、ほぼ毎日オペラやバレエ、そしてコンサートが行われていました。特に印象に残っているのは、私が現地で最初に観たオペラであるプーシキン作の「エフゲニー・オネーギン」です。函館校の「ロシア文学史」の授業でこの作品を学んだということもあり、ストーリーや役者の動きがしっかりと理解できて、終演後には大きな感動を得ることができました。渡航までは全くと言っていいほど絵や演劇などに興味がなかった私も、今回がきっかけで一気に「芸術って面白い」と感じられるようになりました。
 私は滞在中に一度だけモスクワを出て、郊外のウラジーミルとスーズダリという二つの街を回りました。
 そこは全く別世界の田舎で、空が広く、今思い出しても素晴らしいと感じられる風景でした。またどちらも歴史の古い町で、木造の家や教会がひっそりと並んでいる様子が印象的でした。道中もとても楽しく、ウラジーミルからスーズダリまで乗せてもらったタクシー運転手の方と長話をしたり、スーズダリでは畑仕事をしていたおじいさんと出会い、畑を案内してもらい、採れたての野菜も頂くという貴重な経験をすることもできました。
 私は今回、一年半勉強した自分のロシア語はどれだけ使えるのか確かめることを目的として留学に臨みました。現地では一人で行動することも多くあったのですが、日常会話や窓口でのやりとりなど、ほとんどを問題なく行うことができました。そしてその中でロシア人たちの温かさに触れ、多くの友人もできました。ロシア語を始めて一年半でこれほどのレベルに到達することができたことを先生方に感謝するとともに、頑張ってきた自分を少し褒めてやりたい気持ちにもなりました。今回得た経験を生かすため、今後も慢心することなく勉強を続けていきたいと思います。

ウラジオストク留学報告 
ロシア語科2年 倉持 陽

 私がこの留学実習を終え、真っ先に感じたのは嘘偽りのない安心感、生きて帰って来れて良かったということでした。ウラジオストクで生活をしていて、特に危険な目に遭ったり怪我をした訳でも無いので、少々大袈裟に聞こえてしまうかもしれません。しかし日々の生活の中にありとあらゆる極東ならではの厳しさがあり、それを私は留学期間の一カ月を通して身を持って体験することができたのです。
 現地の寮に着き、先ず苦労したのは慣れない悪臭でした。正直最後まであの独特のにおいの元が何なのかわかりませんでしたが、あの臭いを嗅ぐたび身体に緊張感が走りました。
 寮のあるルースキー島到着は既に夜の10時をまわっていたため、すばやくチェックインを済ませ、部屋へ案内されました。部屋に入ってすぐ目に入ったのは床に散らばる無数の虫の死骸でした。幸いにもガムテープを持参していたので、それを使い丁寧に集め、消臭し、解決しました。以降、特に自室で虫で悩むようなことは無く、害虫に多少慣れたことも自分にとってとても大切なステップアップになったかと思います。
 次の日からは沢山の手続きが始まり、私は毎日めげずに英語を話し、色んな国からの留学生と情報交換もし、毎日坂を上り下りし、飲料水を買って運び、毎日パスタを茹で、寮から学校までのバスの席取りに本気を出し、日々を繰り返していくうちに気づいたら帰国の日となりました。
 とにかく毎日十分な栄養を取らなかったため、爪はボロボロ、髪はボサボサ、しかし、水シャワーと手洗い洗濯のおかげで肌は引き締まり、手は荒れていませんでした。ベッドは異常にやわらかく、人生で初めて逆流性食道炎になりました。帰国から3週間近く経った今も引きずっていますが、思い出を噛みしめながら少しずつ治していこうと思います。

ウラジオストク留学報告 ロシア語科2年 玉城 花菜

 人生で初めて頬にニキビができた。「想い、想われ」〜いわゆるニキビ占いでいう位置の「振り、振られ」。そこに小さな赤が一つ二つ。帰国し実家でほっと一息つく今、思い起こすならどうもこのニキビは、あの一カ月間の留学生活そのもの、並びにウラジオストクという街、ひいては私から見たロシアなんてものを象徴しているかのように思える。ロシアと私、振り振られ…なんて言うと多少大袈裟だが事は至ってシンプルだ。
  先ずは、こんなのごめんだ!こちらから願い下げだ!と「振り」たくなるのも致し方のない彼の地の衛生環境について。それは端的に言うと極悪。否、極悪非道とまでも言ってしかるべき事案であった。足の踏み場もない、悪臭その他漂うトイレ。有史以前のものと思われるパイプから渾渾と供給される飲料不可な水、たまに供給される事の無いお湯。何故野放しにされているのか皆目見当がつかない邪悪な害虫ども。あまりにも不可解でSAN値が削られ続ける一方の毎日にうんざりした私は、ウラジオストク駅のトイレ前でその利用料金を要求する仕事に勤められている、強面だが話せば一転チャーミングな女性に聞いたのだ。何故こうも?彼女はあっけらかんと答えた。社会主義の遺物よ、と。
 少しネガティブがすぎただろうか。次に、良い意味で「振られ」た、予想を「良い意味」で裏切られた一般市民との心温まる交流を書き記すことでバランスをとろう。これでも私の対露感情は国内外のそれと比較し、何時だって良い方向に振れていると自負している。そんな私が思っていた以上にロシア、ウラジオストクに住む人たちは外国人観光客に対し優しいなと感じる瞬間は何度もあった。観光に明るい県で生まれ育った身からすると、函館の人なんて特に冷たいなと感じる。明らかに困っている外国人に対し自らアクションを起こすことは皆無、むろん向こうから来ようなら逃げ隠れ。観光地の名が泣いて廃るぞと危惧しているのだが、それはさておき。私は特に方向音痴な訳ではないが、某有名地図アプリに毛嫌いされているきらいがある。留学中何度も方角を見失い、何度も道行く人に助けてもらった。道中イヤホンをしている人は多いが、声をかけると嫌な顔ひとつせず親切に答えてくれた。1番感動した、助かったのが街外れに位置する中国市場からの帰り道のバス。意気揚々と真逆の方向行きに乗り込み、きゃっきゃとお話をしていた。地図を指さし日本語で話していたのだ。「乗り換えは中央広場で...」すぐ後ろの席の男性が大きな声で話しかけてくれた。勿論ロシア語で。「逆!」
 この赤い二つ、両頬のニキビはいずれ跡形もなく消えてしまう。恐らく、いや願望としては今月中に。しかし私は頬にニキビが出来た!という初めての経験を、その驚きと衝撃を一生涯忘れることができないだろう。時が経ちそれが不衛生の賜物、ストレスや単純な栄養不足だという事実は綺麗に忘れさり、生まれて初めての海外留学とはズバリ、美しい街並みや優しい人々、美味しい食事が良かったなんて、安い思い出にすり替えられたとしても。

ウラジオストク留学報告 ロシア語科2年 永谷 璃乃

 ウラジオストクで過ごした一カ月は良い人生経験の一部になったのではないかと思っています。
 特に生活面において困ったことはありませんでしたが、強いていえば手続きです。先ず最初に行ったのが入寮の手続きでした。その手続き自体は1箇所で済むので割とスムーズに終わったのですが、本学のあるルースキー島での手続きは、1箇所では終わらず、しかも他からの留学生も大勢いるため、受付時間が始まるよりもかなり早めに並ばなければなりませんでした。
 寮について。思っていたよりも綺麗な寮でした。他の寮内では頻繁にゴキブリが出没したようですが、私が住んでいた寮の部屋には一度も出ませんでした。ラッキーでした。ただ、時々お湯が出ない事もあったのでその時は水風呂を浴びるしかなく、その点は不便を感じました。寮自体に、食堂もスーパーもあったので割と快適に一カ月を過ごせたと思います。
 ロシア語学校について。私のクラスは学生のほぼ98%は中国人でした。英語が得意な人もいて、時々先生に英語で質問をしていましたが、先生は少し困った様子でした。クラスメイト達はいつもフレンドリーに接してくれたので、そこで仲良くなった友達もいますし、今でも連絡を取り合っています。先生方も丁寧にわかりやすく説明をしてくれたおかげで授業はとてもよかったと思います。
 一カ月ウラジオストクで生活してみて、生き抜く術というものがまた一つ身についたような感じがしました。
 生活自体は函館とあまり変わらず不便を感じた事よりも快適に過ごせたという印象が強く残ったため、ウラジオストクをもう一度訪れたいと思いました。そして、今回の経験が今後に活かせれば良いと思っています。

ウラジオストク留学報告 ロシア語科2年 竹内 志織

 「食べ物がおいしい」。これは、ウラジオストクへの留学から帰国し、まず感じたことだ。そう、ロシアの食べ物が口に合わなかったのである。ロシアに行ったらロシア料理を食べるものだと言われたが、そんなことは私には関係ない。私はロシアでピロシキすら口に入れなかった。
 ウラジオストクに着いた当日はよかった。日本からおにぎりとお菓子を持参しており、それらを食べて明日からの学校に希望や不安を抱きつつ、寝た。問題は次の日からだった。
学校の手続きを終え、スーパーに寄りパンを購入。寮で食べたが、日本の柔らか食パンを食べ慣れている私にはこれが固いのである。しかしまだロシア二日目。「まあ、安い物だったから仕方ないか!これがロシアのパンかと思って、他の美味しいかもしれないパンを食べないのはもったいないかな」、と前向きに考え、今度はもっと柔らかいものを買うぞと意気込んだ。
 その後もスーパーで様々なパンを買ったが、どれも大体固かった。色々食べるうちに、「これは仕方ない。ここは日本とは違う国なんだ。私は別に食べ物を食べるために来たわけではない」、と考えを改めた。
 それでも、やはり人間は美味しいものを食べたいものである。私はロシア料理店をスルーし、韓国料理店とラーメン屋、日本食店へ主に通った。特にラーメン屋は入りやすい場所だったこともあり、ロシア生活前半の体は麺でできていたと言っても過言ではなかった。一カ月の短い期間ということもあり、自炊道具の一切を持ち込まなかった私にラーメンの温かいスープは浸みた。初めてラーメン屋へ行った時、「私は生きているんだ」、と思った。

 そして留学後半以降、私が思っていたより手持ちのルーブルに余裕があることがわかったため、日本食店に行った。この店の米が美味しいのである。上記のラーメン屋にも米はあったが、形容し難いくらい口に合わなかった。そんなこともあって期待はしていなかったところに美味しい米である。好きになるに決まっている。その後も数回行くことになった。
 他の食べ物はどうだったのかと言うと、美味しい日本食に触れたことでほとんど記憶が消えてしまった。
 総合的な感想として、味噌汁が好きな人はインスタントのものを持っていくのがいいだろうと言える。つらいことがあったとしても、美味しくて温かいものを口に入れると忘れることができるのだ。そして日本に帰国しご飯を食べて、一カ月間の留学を乗り切れてよかった、と感じた。

北海道ロシア語弁論大会で優勝 ロシア地域学科2年 竹内 のぞみ

 昨年12月1日に北海道赤レンガ庁舎で開催された日本ユーラシア協会・サハリン州政府・北海道主催の第50回ロシア語弁論大会に参加した。昨年度の函館校の先輩たちの活躍を聞いていたので本大会に出場することは一年前からの目標であった。そのため11月に函館校で行われたАБВГ-Dayにおいても弁論大会を見据えて準備・発表を行った。
 大会にはA・Bの2クラスあり、私はそのうち5分程度のスピーチ・質疑応答・課題詩の暗唱をもとに審査されるAクラスに参加した。スピーチのテーマには、何か自分にしか話せないことをと思い、以前から興味のあったバレエダンサー兼振付家のワーツラフ・ニジンスキー(1889―1950)を選んだ。超人的な跳躍力と表現力で一躍スターダンサーとなるものの、30歳で精神分裂症を発症、その後回復することなく60歳で人生の幕を閉じたニジンスキー。彼という人間の存在が大きすぎて彼についての文章を書くことに迷いもあったが、ニジンスキーについて話したいという気持ちが勝り、先生方に助言を貰いながら原稿を作成した。
 発表に向けて一番の課題であったのが「話し方」だ。自分の声に変化が乏しいことは自分でも理解できるのだが、声をどうコントロールすればよいのか全く掴めなかった。そんな時、課題詩(私は4つの詩の中からアレクサンドル・ブロークの“Голоса скрипок(バイオリンの声)”を選んだ)の指導をしてくださったデルカーチ先生のお手本が今でも忘れられない。声に漂う重厚さや哀愁が詩の景色をありありと伝えていた。声が変化するごとに周りの空気が変わるのを感じたのは初めての経験だった。ロシアで「詩のコンサート」が日常的に催されている理由を身をもって理解すると同時に、いつかは私もこのような話し方が出来るようになりたいと強く思った。

 本番は緊張もあったが、思いのほか落ち着いて発表することが出来た。質疑応答で詰まったところがあり悔いが残るものの、全体を通しては達成感も感じている。
 その結果今回は1位というありがたい賞を頂いた。しかしニジンスキーについて一定期間考え続けられたこと、そして彼の人生や考え方を少しでも人に伝えられたことが結果以上に何より嬉しい。言うまでもないが、今回の発表は先生方や友人の助けに負うものが大きい。今後も自分の恵まれた人間関係やこの環境を当たり前のように思うことなく、勉学に勤しんでいきたい。

<結果>1位 ロシア地域学科2年 竹内 のぞみ
       2位 ロシア地域学科2年 平原  響

アカデミックリンクに参加して ロシア地域学科1年 小池 凜

 私たちは、11月10日に開催されたアカデミックリンクに参加しました。アカデミックリンクとは、函館市内の8つの高等教育機関が日頃の研究成果を発表する場です。
 発表は、ブースセッションとステージセッションの部に分かれており、ブースには本校から2つのチーム、ピロシキ八幡坂とイワン・ハコダテスキー(函館のイワン)が参加しました。
 二年生を中心としたイワン・ハコダテスキーは、『Время Вперёд ― 時よ、前進!―』というYouTubeに上がっているロシアのニュース番組を翻訳しました。
 私たち一年生を中心としたピロシキ八幡坂は『オリジナルピロシキができるまで』と題し、ステージとブースの両方に出展しました。
 発表では、ピロシキの歴史から、日本へどうやって伝わっていったのか、本場のピロシキとはどのようなものなのか現地調査を行なった結果などを踏まえ、自分たちが作りたいピロシキについてキングベークさんの協力のもと制作過程を発表しました。

 当日のブースでは、発表を聞いてくださった方に試食を用意できなかったのですが、オリジナルピロシキ3候補の中で、どのピロシキが食べたいかアンケートを採りました。候補は、ロシアの伝統的なサラダを使ったヴィネグレットピロシキ、函館らしさを出した塩辛チェダーピロシキと塩辛カッテージピロシキです。結果は、塩辛カッテージピロシキが一番人気でした。これは、試作品を食べた本校の学生たちの意見と同じだったので興味深かったです。
 また、このステージ発表の原稿を考えるにあたり、持ち時間に合わせてピロシキの歴史や地域性など、泣く泣く台本を削ったところもありました。当日に向け熟考を重ね、発表一週間前は毎日遅くまで残り、大変でしたがいい経験でした。
 他にも、企業と協力して何かものを作るということは、私自身初めてだったので、貴重だったと思います。

 このプロジェクトはこれで終わりでなく、2月にあるロシアまつり、フードフェスタでのピロシキ販売に繋がります。また、順調に進めば、ピロシキ八幡坂のサークル化や、来年度のロシアまつりでまた新たなピロシキを販売できるかもしれません。
 もともと私たちはロシア語を学びにこの大学に通っているため、このプロジェクトはまだまだ手探りの状態です。メンバー一同励んでいきますので、これからも応援よろしくお願いします。

函館校に留学して 極東連邦総合大学東洋アフリカ学日本語専攻 3年 ゴロワノワ・アナスタシア

 函館校の留学に参加したナスチャです。日本に来る前は、この留学にさほど期待していませんでしたが、実際は全く逆でした。
 ほぼ毎日天気が良く、紅葉を見ながらきれいな海の空気を吸いこみ、散歩しました。毎日、ホストファミリーのお母さんが作ってくれた料理は、本当に美味しかったです。また、ホストファミリーのお母さんたちのおかげで、温泉、五稜郭タワー、すし屋に連れて行ってもらいました。
 函館山登山バスで山に登り、夜景を見て来ました。美しかったです。その時に風邪をひいてしまい、最終日まで治りませんでした。
 空港ビルデングでの一日インターンシップ研修は面白かったです。普段立入ができない部屋、案内所、そしてお土産店などを見学しました。
 函館校の先生たちのおかげで、多くの役立つ日本語を覚えることができました。例えば、「おふくろの味」とか、「会社回り」、「車庫」、「差額」といった言葉です。
 函館はイカが一番有名ですが、噛んだ感触が苦手で、私には「すきやき」、「カレーライス」、「牛肉カルビ」が好きな料理でした。函館校の食堂にも「ボルシチ」というロシアの伝統的スープがあり、食べてみると母が作ったような味で、本当においしかったです。
 函館校で一番大事な行事は、АБВГ-Day(言語まつり)でした。日本の学生もロシアの学生も面白い発表を用意し、一生懸命頑張りました。発表の後、色々なゲームで楽しみました。函館校の学生は皆さんいい人で、友達もできました。
 この留学のおかげで日本での一般的な生活を体験できました。函館はそれほど大きな町ではありませんが、面白く、心地よい場所です。必ずもう一度函館に来ます。この三週間は楽しかったです。皆さんに感謝します。
 (アナスタシアさんの留学体験記は、函館市文化・スポーツ振興財団発行『ステップアップ』http://www.zaidan-hakodate.com/stepup/ 2019年1月号にも掲載されています。)