学報 "МИЛЛИОН ЗВЕЗД"

学報"МИЛЛИОН ЗВЕЗД"

No.73 2012.10 "Миллион звезд" ミリオン・ズビョースト/百万の星

函館生まれのロシア人/ロシア極東連邦総合大学函館校教授パドスーシヌィ・ワレリー

日本とロシアの歴史的な関係において、函館は特別な土地だといえる。日本最初のロシア領事館がここに置かれ、最初のロシア正教会が建てられ、ロシアの大学の分校が開設された。そして、日本で初めてロシア人が生を受けたのも、まさにここ函館においてなのである。それが、ジャーナリスト、作家、詩人として活躍し、日本研究家であり、『ウラジオストク市歴史概説』の著者でもあるニコライ・マトヴェーエフである。
 彼は、1865年11月10日函館で生まれる。彼の父親ピョートル・マトヴェーエフは、ロシア領事館の医師であった。ニコライが幼い頃、日本人の乳母が彼を連れて家からいなくなってしまったことがあった。乳母は、知り合いのところを回って、日本で初めて生まれたこのロシアの子どもを見せて歩いたという。
 マトヴェーエフは、ウラジオストクで学ぶ。港湾関係の学校を卒業し、港湾修理工場で働き始める。そこで学んだ以外、彼の博識はすべて独学によって得たものである。

 青年労働者は詩を書き、やがて『ウラジオストク』紙のジャーナリストとなるのである。
 1901年、ニコライ・マトヴェーエフの初めての詩集が刊行される。詩集はたいへん好評を博し、読者が買い求め、完売となった。3年後に出版された彼の散文を収めた本も成功をおさめる。
 1906年、ウラジオストク時代のマトヴェーエフは、ロシアの人々と中国、朝鮮、日本という隣国の人々との交流の一助となることを願って、『極東の自然と人々』という雑誌を発刊する。1910年に彼が刊行したウラジオストク市の歴史についての初めての本は、現在もなお出版され、読まれ続けている。
 ニコライ・マトヴェーエフは、生まれ故郷である日本を頻繁に訪れた。彼の親しい友人がそのことについて、「ある秋の日、朝日新聞の編集部へ私を訪ねて来た。私は、菊の展示会に彼を招待した。展示会では、それぞれの菊の名前に興味を示した。彼は漢字をよく知っていて、難しい菊の名前の深い意味を理解していた」と回想している。
 ロシアで内戦が起こっていた1919年5月、ニコライ・マトヴェーエフは日本に永住し、ジャーナリストとしての仕事を続ける。大阪の『ロシア極東』誌の代表であり、アメリカの新聞や雑誌の記事を書き、児童書の出版をしていた。
 マトヴェーエフは、日本における亡命ロシア人団体の活動に参加していた。この団体は、ソ連から亡命してきた人々を救済し、日本と中国におけるロシア人学校のための資金を集め、子どもたちの祝い事や若者のためのサークルを組織するなどの活動を行っていた。1936年には、友人たちと神戸にロシア合唱団を設立した。
 ニコライ・マトヴェーエフ、1941年2月8日神戸にて死去。長い間病の床にあって働くことのできなかった彼をその死の間際まで支えていたのは、日本人の友人たちであった。彼らは治療費を工面しただけではなく、マトヴェーエフ家の家族の援助も行っていたのである。
 マトヴェーエフの墓前には、「親愛なる友よ、安らかに眠りたまえ」とロシア語で刻まれた記念碑が建てられている。マトヴェーエフの古い友人でかつての在ウラジオストク日本国総領事が、その建設に奔走したのである。

学生からの投稿

北方四島交流事業報告

(社)北方領土復帰期成同盟北方四島交流北海道推進委員会主催により9月7日〜10日まで行われた今年度第5回交流訪問事業で国後島を訪問した学生の報告を掲載します。

国後島訪問の感想 ロシア地域学科3年 工藤 美咲

ロシア語の看板、飛び交うロシア語、日本固有の領土のはずである国後島は、まるでロシアのようでした。
国後島に到着して初めに行なわれたのは、「フレップ ソリ」というロシア式の歓迎でした。しかし私は歓迎ではなく「ここはロシアです」と遠まわしに主張しているように感じました。
  島内はアスファルトで舗装されている道路が少なく、ほとんどが砂利道で、埃っぽいため、時々散水車が走っていました。
 現在、国後島では古い住居を取り壊し、新しく建設している最中です。島内は古い住宅ばかりで、なんと20年以上建て替えられていなかったそうです。保育園や教会、さらに神学校も建設していました。
  最近では、ロシア本土から国後島に移住する人が増え始めているとも聞きました。浄水場や空港の改築、そして新たに体育館の建設予定まであるそうです。このように建設ラッシュや移住者の増加などを目の当たりにすると、領土返還の道はどんどん遠のいているように思いました。