学報 "МИЛЛИОН ЗВЕЗД"

学報"МИЛЛИОН ЗВЕЗД"

No.53 2007.10 "Миллион звезд" ミリオン・ズビョースト/百万の星

私とロシア/ロシア極東連邦総合大学函館校 図書館司書吉崎 侑

10年前、私は33年間の教職員生活を定年退職して、さて、第二の人生を何をして過ごそうか?取り敢えずは年老いた父母の介護かなと考えているところに、ロシア極東連邦総合大学函館校の図書室で司書の仕事を手伝ってみる気はありませんかというS先生からの思いもかけないお電話。この世で一番と言っても良いほど好きな図書の仕事が出来る、二つ返事で私は大学の玄関をくぐった。あの日から早や10年。
 司書の仕事が始まって間もなくの頃、元外交官として旧ソ連の国々を廻った方のご家族から八百余冊の本の寄贈があった。その本を見て私は吃驚仰天!半分以上がロシア語の原書ではないか!その時になって私は初めて、ここで司書の仕事を続けるならせめてロシア文字が読めて、書くことができなくてはならないと気が付いたのだった。早速私はロシア語市民講座の入門クラスを受講することになった。私とロシアの出会いである。

  生まれて初めて見るキリル文字。でも33文字覚えればいいのだ、漢字を覚えることを考えれば楽ではないかと高を括ってはみたが、とんでもない!発音が難しくて勉強は遅々として進まず、頭の中をいつもロシア状態にしておく事ができないので辛かった。でもとても熱心に教えてくださる美人のイリーナ・バランスカヤ先生の授業は楽しかった。バランスカヤ先生には、その後時折、ロシア語だけではなく、お料理の事、ファッションの事、ロシアの暮らしの事など語るほど仲良くして頂き、今も懐かしく思い出されまたいつかお会い出来たらいいなと思っている。

 さて、寄贈された原書のダンボールの山は、とても私の手には負えない。私がロシア文字で受け入れ業務が出来る日まで、私をこの図書室に紹介して下さったS先生の助けが必要である。そこで先生のお宅にダンボール箱ごと運び、原簿に記入、カード書きなどして頂き、後日それを受け取りに行く。そして次のダンボール箱を置いてくる。司書とは名ばかり、なんとも情けない運び屋稼業がしばらく続いた。私の拙いロシア文字が原簿に表れるのはおよそ1年後である。それからは時々S先生に点検して頂きながら独立して行く私。

 市民講座の受講の前期が終わる頃ちょっと大きな交通事故に見舞われた私は、父母の介護が必要になり始めたこともあり受講が不可能になりロシア語の学習はこの時点で頓挫してしまった。文法が判らない、暗記力が衰えていく一方なので語彙が増えない、直ぐ忘れる。この世で一番難しい言語と言われるロシア語に挑戦する気力はもう私には無さそうである。とても悔しいけど。
 その後この10年の間に数多くの原書が図書館に寄贈、あるいは購入され、その数は二千冊に近い。これほどのロシアの本が揃っている図書室は全国でも珍しいのではないだろうか。原書は勿論の事、
日本の出版物も殆どがロシア関係の書物である。大袈裟に言えば、函館の財産の一つとして自慢していいかと思う。

 ところでロシア語習得を放棄した私が、後悔の念とともに今もって困っているのは本の内容が読み取れない事。本は一冊ごとに分類記号を決めラベルを貼付しなくてはならないが、分類記号は内容によって異なるのでそれを決めるのが一仕事なのである。簡単なのは本のタイトルで決定できるが、タイトルだけでは文学なのか科学読み物なのか判らないというような時、内容を読まなければならないがそれが私には不可能なのだ。そこで私が強力な助っ人としてお願いするのがアニケーエフ先生である。先生のお時間のある時、先生は快く図書室に寄って下さり、本の内容、タイトル、作者や編者等を解説してくださる。そんな時先生と交わす会話が私はとても楽しい。ロシアと日本の文化の違いなど話しながら私なりにロシアを知る縁にしている。
 ある時、先生が私の書いたカードをご覧になり「ロシア人は活字体では書きません。それはまだ良く字の書けない子供か判らない大人です。」びっくり!私としてはてっきり丁寧な整った字で書いていたつもりだったのに、きっと日本でいえば平仮名だけで書いていたようなものだったんだろうか。でも、背表紙は殆ど活字体で書いてある様なのになぜだろう?まだ先生に確かめてはいない。勿論その日から原簿もカードも全て筆記体で書いている。流れるように書く事が難しくなかなか上達しないが、この頃では日本の書物のそれを漢字交じりで書くより楽に感じている。

 間もなく今年もロシアまつりが行われる。私もきっとお手伝いさせていただけるのではとわくわくしながら待っている。この年になって若い学生さん達の仲間に入れていただくなんて、それだけで気分が若やぐようである。それも皆んな10年前にこのロシア極東連邦総合大学函館校に勤める事が出来たから。キリル文字を知り、沢山の心優しいロシア人の先生方と言葉を交わし(勿論日本語で)、ロシアのお料理を好きになり、5日間だけだけだがウラジオストクに行く事も出来、ロシアが大好きな学生さん方と話す事が出来、家ではグジェーリのお皿で焼き魚を食べる。そして何より多くのロシアの本に囲まれての仕事。私の生活はもうロシアを抜きにしては考えられなくなってしまった。

学生からの投稿

第9回青少年サハリン北海道「体験・友情」の船に参加して ロシア地域学科4年 豊留 大和

函館→札幌→稚内→サハリンというように3日間の移動を経てようやく到着しました。2時間近くかかった入国審査を抜けると、サハリン学生による熱烈な歓迎が待っていました。日本の子どもたちはというと、そこにいた近所の子どもたちと早くも友達になり走り回っています。言葉も解らずに仲良くなっている彼らを見て、自分も見習わなくてはと感心した後、宿泊先へ向かいました。パトカーに護られながらまた1時間以上移動してやっと到着しました。予約を取るのも難しいと聞いていたそのホテルは、着いてみると実は老人ホームという、いかにもロシアっぽい小話で到着早々に心を折られながらも、サハリンでの生活が始まりました。
 3日の予定は観光でした。博物館や美術館を見て回り、説明を通訳しました。子どもたちはほとんど聞いていませんでしたが・・・。午後はサハリン側の方とのスケジュール確認の通訳をしました。これは今後の予定に係わる国家レベルの仕事だと勝手に思い込んで、終わったときには緊張で疲れ果ててしまいました。
 4日の午前中は、日本語を勉強しているサハリンの子どもたちと日本の子どもたちの交流会でした。やはりこの年齢の子どもたちに通訳の必要はほとんどなく、テレビ局のインタビューを通訳するだけでした。ちゃっかり自分も出演しました。午後からは湖の畔でバーベキューの後、スポーツや料理をして交流し、この日も終わりました。
 5日と6日はホームステイでした。私もアニワという町にホームステイする子どもたちについて行きました。市役所で市長の通訳をし、子どもたちをホストファミリーに預けた後は特に仕事もなく、買い物をしたり、海に行って泳いだりバーベキューをしたり、私がお世話になった家は漁師だったこともあり、ロシアで漁をするなど、とても貴重な体験をさせていただきました。
 7日、ホームステイから戻ってきた子どもたちは、出発前に不安そうな顔をしていたことが信じられないほど生き生きとした顔をしていました。彼らもきっと私と同じようにいろいろな体験をし、楽しくこの2日間を過ごせたのだと思います。この日の午後は閉会式があり、ゲームをしたりダンスをしたりと、みんな別れを惜しんでいました。

 こうして短いようでとても長かったサハリンでの1週間を終え、8日に私達は帰国しました。こうして振り返りながら書いていると、長々となって、まとまりのないものになってしまっていますが、それだけこの1週間は内容が濃く、充実したものだったとご理解ください。不明な点がございましたら、来年この青少年サハリン・北海道「体験・友情」の船に参加されてみてはいかがでしょうか。

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ロシア語科1年 古屋 千尋

私がこの企画に参加した理由は、3年前に我が家にホームステイしたサハリン出身の女の子の影響でサハリンに興味を持ち、憧れ、訪れてみたいと思っていたのと、その子に会えたらいいなぁと淡い期待を持っていたのと、ロシア語を学び始めて間もないけれどもロシア語の実践をしてみたかったことです。

 私が想像したサハリンは、大草原が続き、大きな家々が点々としている、どこか田舎のような感じだと思っていましたが、実際は、近代的な街並みで、建物が大きく、道路には多数の日本車が走っていて、また、日本語を学ぶ学生が多かった事が印象的でした。また、滞在したサナトリウムはとても大きな建物で、出てくる食事は薄味のものが多かったのですが、定番のボルシチを食せたし、ピクルスの美味しさには驚きました。ロシアの食文化の一端に触れる事ができたことが何よりも嬉しかったです。
 この旅で一番驚いた事は、3年前に我が家にホームステイした女の子とばったり出会ったことです。滞在3日目の歓迎式で交流会を終えた後、たまたま私がフロントにいたとき、ロシア民謡を披露してくれたグループが通って行きました。その中に見覚えのある顔があったので、もしやと思い声をかけたら何とその彼でした。奇跡的な再会でした。

 市内観光で訪れた旧樺太庁の建物をそのまま利用した郷土博物館にはアイヌ民族の衣装などが飾ってあり、美術館では日本の仏壇が展示したあり、昔日本であった歴史を物語っていました。
 また、サハリンでは、私の想像以上に朝鮮系の人たちが多く、私のホストファミリーも韓国の方でした。
 ホームステイ中は、主に、韓国料理が出されました。家族はサハリンに住んでいながらも韓国のライフスタイルを重んじた生活を送っていると感じました。彼らは伝統を守るため、韓国人としか結婚を許されないことをホームステイ先の娘さんから聞きました。不満そうな顔をして話していたのが印象的でした。また、日本からの手土産として鐘の形をした風鈴を渡した際に、父のサーシャから、40年前に韓国からサハリンに移住し、日本人学校に通わせられたときに見たのとそっくりで、音までも同じで懐かしいということと、いまだに故郷の韓国には帰国できないと聞かされたとき、何かグッとこみ上げてくるものを感じました。

 私は、以前、サハリンは日本の領土で朝鮮の方々が強制的に連れて行かれたということから、日本人に対する印象が悪いのではないかと不安でした。しかし、ホストファミリーの方々はとてもよくしてくれたし、デパートの朝鮮人の店員には、昔日本語を習っていたとか、同じアジア系なのに色白だねなどと気さくに話しかけてくれました。また、ロシア人の小太りのおばさんには、「まぁなんて小さい女の子なの。かばん開けて。」と言い、私のカバンの中にチョコや飴を入れてくれました。ロシア人の女の子には、「どうして色白なの?」と聞かれることが度々ありましたが、逆に私の方から、どうしてロシア人は白人なのに私たち日本人より黒く焼けているのかと聞きたいくらいでした。
 この1週間の滞在を通して、私は、日本人として以前に自国が何をしてきたのかについてもっと知らなければならないことともっともっとロシア語を学ぶ必要性に気付きました。これからの学習の方向性を掴むことのできた旅でした。
 このような機会を与えて下さった学校はじめ関係者に感謝申し上げます。

「北方四島青少年受入事業(根室市)」に参加して ロシア地域学科4年 ロシア地域学科4年

「北方四島から青少年30名が根室に交流に来るので、ボランティア通訳として参加してみないか?」
私はこの話を受けた時、タダで旅行ができる!子供の相手は初めてじゃないし、なんて楽なんだろう!と勘違いしていました。我が校からは私を含めて3人の学生、札幌大学から5人が意気揚々と根室支庁に到着。ブリーフィングが始まった頃からだんだんと意気消沈。予想をはるかに上回るハードスケジュール。その日は現地で合流した札大の学生達と団結式を近くの居酒屋でおこない、最後までやり抜くことを皆で誓い合いました。
 しかし!その誓いも初日でくずれそうになりました。なぜなら、四島の青年達のほとんどに独特の訛りがあったからです。しかも、遠慮無くまくし立てるので、普段の授業では得ることの出来ない貴重な実践練習でした。

 市街地での自由時間(主に買い物)も、想像を絶する厳しさでした。島では日用品が慢性的に不足しているらしく、家族や知り合いからお使いを頼まれている人ばかりでした。私は子供達と結構仲が良かったので引っ張りだこで買い物に付き合わされていました。中心部ではお店がたくさんあったので、色々な買い物をしました。補聴器や糖尿検査紙、ゲルマニウムリング、ライター、箸、コップetc.etc.ホントに大変でした。
 プログラムでは日本文化の書道体験や元島民の講話、地元の学生達と「友好の旗」の作成などがありました。書道体験の時には、飽きてくるとお約束の落書きや似顔絵描きなど…。やっぱりどこの国でも子供は一緒だなとしみじみ思いました。

 そんな感じで9日間が過ぎ、いよいよお別れの時に、子供達がなんと私に内緒で描いていた似顔絵をくれました。へたくそで似てませんでしたが、今でも私の大事な宝物です。
 再会を約束しましたが内心「北方領土へは行けないよなぁ」と諦めていました。
 ところが先月、学校事務局に呼ばれ行ってみると、北方四島推進委員会から元島民のビザ無し交流のお手伝いをしないか?との事。私はありがたくこのお話を受け、9月27日から10月1日まで色丹島に行くことになりました。
 今度は気を引き締めて全力で頑張ってきます!