学報 "МИЛЛИОН ЗВЕЗД"

学報"МИЛЛИОН ЗВЕЗД"

No.50 2007.1 "Миллион звезд" ミリオン・ズビョースト/百万の星

国際交流って何ですか?/ロシア極東連邦総合大学函館校 事務局大渡 涼子

大阪万博が開催されたとき、私は2歳で京都に住んでいた。かすかな記憶しか残っていない遠い昔。ぼろアパートの襖には、開いた穴を隠すための世界地図が貼られていた。その世界地図の周囲を、万国旗がぐるりと囲んでいた。
 万国旗に興味を持った私に、両親は「世界の国旗」という本を買い与えた。まだ字が読めなかった私は、耳で聞いてそれを全部覚えた。父親とふたり阪急電車に乗り、国名を一つひとつ交互に言っていく。南イエメン、オートボルタ、トリニダード ドバゴ、ホンジュラス、ニカラグア…。電車に乗っている大人たちは、小さな私を驚異の目で見る。父はそれが得意だったらしい。両親は浮き足立った。「この子は天才かもしれない!」

 しかしその後函館に引越し、ひらがなを覚えた私は、万国旗のことはすっかり忘れてしまった。蛙の子は蛙、やはり普 通の子どもだったのだ。そして私は外国 にはまったく興味を持たない子に育った。まだまだ函館には外国人は少なくて、ごく稀に自転車に乗った宣教師などとすれ違うと、恐くて息も止まりそうだった。英語が苦手、洋画は観ない、洋楽も聴かない、小説は日本の物しか読まない。日本に浸りきった生活をし、横のものも縦にすると言われたほどだ。
 そんな私が、今はどういうわけか日本人よりも外国人が多い職場で働いている。不思議なものである。最初はロシア語の「ロ」の字もわからなかった。だがここにいるうちに、先生方が何を話しているのかうっすらとわかるようになってきた。ロシアから送られてくるFAXも、誰に宛てられたものかなんとなくわかるようになったのだ。習った英語もろくに話せない私が、である。環境とは恐ろしいものだ。そうするうちに興味が湧いてきたことと必要に迫られて、夜間本校で開講しているロシア語市民講座で一から習い始め、早や6年になる。

 外国語を、そして外国を学ぶことは日本を知ることにつながる。日本だけを勉強していても駄目なのだ。アメリカ偏重の世の中だが、外国は何もアメリカだけではない。英語が苦手で、日本一辺倒に生活していたときには気がつかなかったことが、ロシアに身を置くことで視野が広がり、見えるようになる。思わぬ日本の長所や短所を知ることになる。この大学で遅ればせながらそのことに気づかされたのだ。

  異文化交流、国際交流などと簡単に言うけれど、実際にはそうたやすいものではない。言葉が通じなければ、先へ進めないことも多い。その点、本校の学生は大変恵まれた環境にあると思うのだ。日本語を話し、日本を理解しようとするロシア人たちがいる。日本にいながら日常的にロシアに接し、留学実習により現地で生活もする。自然と、机の上では勉強できないことが身につく。 日本とロシア、国同士の関係は問題が山積みでなかなか分かり合えないことも多い。だが、函館校でともに過ごす私たちの間には、そのような問題は介在しない。今はそうと気がつかなくても、ここはとても贅沢な空間であり、ここにいる時間は人生の間で夢のような時間であったと後々思うだろう。そのことを心に留めながら、学生生活を大切に送ってもらいたいと願う。

 余談だが、大阪万博で私はソ連館には行っていない。当時宇宙開発で世界に先んじ強大な力を持っていたソ連と、アポロ帰還直後で「月の石」を展示していたアメリカのパビリオンは大変な混雑で、入場できなかったそうだ。万博で撮った1枚の写真、母の腕に抱かれた小さな私が、イタリア館で外国人に話しかけられて泣いている。そして今も私の手元に残る、ぼろぼろになった「世界の国旗」。それらは私の大切な宝物である。

学生からの投稿

留学を終えて ロシア地域学科3年  平沼 多恵

9月のウラジオストクはまだ夏という雰囲気が残っていて、私の抱いていたイメージとは違っていました。もう秋が始まっていて、涼しいくらいかと思っていたので。
  私にとっては一昨年の留学に続き、今回は2度目の留学でしたが、ウラジオストクは全く変わっていなくて、迎えの様子も以前と同じでした。
  寮は少し改装されていて、きれいになっていました。部屋の窓が良くなっていたのには驚きましたが、他は相変わらずで不便なところもありました。しかし、次第に慣れてきて快適に暮らしました。わりとすぐに寮生活には慣れましたが、今回は市内見学の予定が最後のほうにずれてしまったりして、忙しい日々がけっこう続きました。

  学校の授業はすべてロシア語でした。一昨年留学した時と同じ先生が受け持ちであったので、授業の進み方にもすぐになじめました。ただ前のクラスより人数が多かったので、少し緊張しましたが。
  街のお店では前回の留学では見られなかった(行かなかった)カフェやレストランに行きました。最初はもちろん緊張しましたが、次第に慣れ楽しく食事をすることができました。今回は、前回行かなかった場所にたくさん行く事ができ、連れて行ってくれた友達に本当に感謝しています。
  面白かったのは映画でした。私は日本では映画をほとんど見ないのですが、ロシアではたくさん見ました。すべてロシア語に吹き替えなので、言っていることは全然わかりませんでしたが、たまにわかると嬉しかったです。あとは雰囲気で内容をつかんで、ロシアの映画館という場所を楽しんでいました。

  長いと感じたのは、2ヶ月目の10月だけで、11月に入ると、あっという間に帰国日を迎えました。今思うと、もっともっといろんな人と交流しておけばよかったな、と思います。そしてまたいつか、ロシアに行く日のために勉強は続けたいな、と思いました。

ロシア地域学科3年  笠原 勇次

ロシアでの生活は予想をはるかに上回る生活でした。出発する前までは、とりあえず自分は3年間ロシア語を勉強していたので、海外生活は初めてだけれど「なんとかなるだろう」と楽観的に思っていました。が、その考えは到着と同時に木っ端微塵に打ち砕かれました。なにしろ空港の警備員が自動小銃を携帯していたのです。その後気づきましたが、スーパーの警備員さえも銃を持っていました。「…おそロシア…」。やはりここは海外なのだと実感させられました。

 寮での暮らしは、毎日が驚きの連続でした。まず水道水が飲めなかったのです。その為、近くのキオスクまで行き、水(5L入り)を購入しなければなりませんでした。最初の頃は、まだ暖かかったのでさほど苦にはなりませんでしたが、冬が近づくにつれ毎日が修行でした。日本ではほとんど車での移動だったので、これは久しぶりのいい運動になりました。
  食事の問題も発生。お昼は大抵食堂ですませていましたが、問題は夕食でした。初めての地なので、何処に何が売っているかもわからず、始めの1週間はパンと冷凍のペリメニ(水餃子)もしくは、カップ麺などのジャンクフード漬けでした。自分にはこの食生活を続けることは無理だと思い、自炊しようと決意しました。
  まずはノートを持って近隣のスーパーや市場に何があるかをチェックしに行き、独自の買い物ノートを作成しました。それから1人当たりの負担額を減らすために割り勘制度を導入して、夕食の時間を決め、友人たちを部屋に招くことにしました。すると結果は大成功。5~6人で食べて1人分が35~50ルーブル(200円くらい)。外食よりも安上がりで、皆で美味しく食べることができました。
  ただ語学力が拙いので、買い物の時に店員と話がかみ合わない事が何度もありました。正直言って悔しかったです。いつかはリベンジしてやる!

 そして、帰国してしばらくたった今、何かが足りないような気になりました。毎日がのんびりとただ時間だけが過ぎていく感覚。生活は便利で安全、しかも言葉も通じるのに。あの時の充実感が無くなってしまいました。「なら、今から(ロシアに)行くか?」と言われたら…まだ決められません。もう1年、しっかり学んだらリターンマッチに臨みたいです

ロシア地域学科3年 岸田 正人

海外での生活。1度はそんな経験ができるのではないかと考えていましたが、本校に入学することにより実現でき、私は大変恵まれていると思いました。
しかし、ウラジオストクでの3ヶ月にわたる留学生活は、想像していたほど刺激的なものではありませんでした。というのも、留学前に知人や先輩から、また、学校から多くの情報を得ていたこと。ウラジオストクは日本ではないので、生活習慣や文化など、全てが異なることは当然という思いがあったからです。このように驚きや感動は少なかったということです。このように、一見この留学が充実したものではなかったように受け取られるかもしれません。しかし、充実したものかどうかだったかということは、その時感じられるものではなく、あとになって感じられるものだと思いますので、あともう少しかかりそうだということです。ここでは、留学中に学んだ事と、思い出に残っている事を書きたいと思います。

 私は、3ヶ月という短い期間でしたが、同じ寮に一緒に生活をするということで、ある程度個々の地の部分が出てくるものだと覚悟はしていましたが、これだけは想像をはるかに超えていました。初めはそんな時に出くわすと、戸惑い腹も立ちましたが、そんな相手と上手く付き合っていくには、そんなところには目をつむり、相手の良さを探す努力をすることが必要であることを学びました。

  思い出としてはロシア人の優しさです。私が知り合ったロシア人は幸いなことに大変いい人ばかりでした。例えば道に迷った私たちに、見ず知らずの人にも関わらず、彼らは気軽に教えてくれました。また、驚いたことに知り合って間もない私たちを別荘に招待してくれたり、市内観光に連れて行ってくれたり、自分の猫を抱かしてくれたりと、いたれりつくせりのもてなしを私たちにしてくれる人たちさえもいました。出会ったロシア人の温かさにはとても感謝しています。

ロシア地域学科3年 樽見 征雄

今回、私にとってはおととしの4月からの1ヶ月間留学に続いて2度目のウラジオストク留学であった。今回は9月17日に出発。2ヶ月後にはロシアは相当寒いだろうとスーツケースに多くの冬物を揃えて新潟空港から出発した。早くも9月のウラジオストクは「黄金の秋」を迎えていた。10月になると北海道や函館の様に霙混じりの雨が降り、日没が早いのだろうと考えていたが、ウラジオストクはほとんど雨の日がなく乾燥した晴天の日が続き、さらに夜の8時頃まで明るく、快適な日々を送ることができた。

 そんな日の10月6日(金)、シュコーラ(ロシア語学校)主催の体育大会が郊外で催された。バス3台で屋外体育施設へ出向いた。中国人、韓国人が圧倒的に多く、日本人は、函館校6人と合わせて10人で、それにシュコーラの先生方とスタッフのロシア人が参加した。
準備体操そして団体ゲームのあたりから国際試合らしく盛り上がり、次にサッカーの試合でピークに達した。我が函館校中心の日本・韓国合同チームと中国チームの対決。スタンドには百名以上の観客がいて、応援合戦は見事な体育大会の雰囲気を作り出した。試合は日本・韓国合同チームが3対0で勝ち、勝利の握手、さらに記念撮影が行われた。

 他方の会場では、先生方と学生のバレーボールの試合が行われ、私は老齢ではあるが選手として出場した。私の活躍もあったせいか2対1で学生のほうが勝った。その他バスケット、卓球、バトミントン、綱引きも行われ、中国人、韓国人、日本人、そして先生方が思い切り楽しんだ1日であった。
終了後、全員で昼食をとり、その席で表彰式が行われた。結果発表、賞品、賞状の授与があり、驚いたのは2人の個人優秀賞に私が選ばれ授与されたことであった。それ以後は寮生活・ロシア語の勉強に互いの学生間の距離が近づき挨拶も楽しくなった。
 しかし、その日の夜は私にとって忘れられない日となった。それは前々日から飲んだ牛乳が原因で食中毒を起こし深夜に渡りトイレに通った。尋常な状態ではないと思い翌日病院に行き、2日間入院するはめになった。入院中、周りのロシア人は親切で、この留学で一番真剣にロシア語を話す機会となった。

 健康が回復して、10月21日(土)に私は、函館校の1人と大阪外大の2人の4人でナホトカへ行く約束をした。当日は朝の5時30分に寮の前に集合し、やや寒い暗い道を歩いて駅へ行った。
 6時30分発の向かい合う6人掛けの電車はきれいであった。ナホトカまで5時間かかり120ルーブルの運賃は「何と安いのか」。と感激した。車内には釣りに行く人、ナホトカ方面に旅行する人で長い列車を埋めていた。車窓から見ると黄金の葉の上に霜が降りていた。
 チハオケアンスカヤ駅で降り、西方面に歩くとすぐに「友好に壁はない」と刻んである小樽・舞鶴・敦賀・ナホトカの4都市の市章をあらわしたモニュメントを見て感激した。博物館も見学し、レーニン通りも歩き、そして東の方へと進んだ。15キロも続くナホトカ港を見下ろす展望台では、黄金に色づき秋もまさにたけなわという感じだった。さらに結婚式を挙げたカップルの白い結婚衣裳が見事に映え渡り、さらに感動した。戦勝記念碑で一行とウオッカで乾杯できた事もロシア語の勉強にもなった。

 11月11日(土)には同期の仲間に盛大な送別会をやってもらい、いよいよ明日帰国となった時、ロシア語の勉強も中途半端だし早く帰るので「同期の仲間にも悪いな」と感じ、何か帰るのが複雑な気持ちになった。12日(日)には、さらにみんなに寮の前で見送られ、1人での帰国となった。

ロシア地域学科3年 富樫 周子

ウラジオストクは極東地域の中で最も大きい町の一つです。アジアの雰囲気が少しだけ混ざったような異国情緒漂う街並でした。港町という点と、異国情緒という点では、ウラジオストクは函館に似ていると思います。
 ウラジオストクへ行くのは今回の留学で2回目でしたが、3ヶ月も日本を離れるというのは初めてのことで、不安もたくさんありました。
 寮生活や学校にも最初はなかなか慣れる事ができず苦労しましたが、少しずつ慣れていき、楽しく過ごすことができました。授業はすべてロシア語で行われ、最初はとまどいましたが、しだいにロシア語を聞き取ることが楽しく感じるようになりました。また、文法の授業の他に、映画、音楽、文学の授業もあり、ロシアの先生の話や、意見を聞くことができとても勉強になり楽しかったです。

 また、スポーツ大会や文化祭もあり、韓国や中国の学生さん達と交流する機会もありました。学校が終わると、買い物や散歩へ出かけ、夜はみんなで夕食を食べて・・・。函館では体験できない生活だったので、とても思い出になりました。 また、週に一度「日本語会話クラブ」というものがあり、そこで日本語を勉強している学生達とも知り合う事ができました。極東大学以外の学生達も参加していいるので、様々な人と知り合えました。
 街の中では海岸通りと市場が私の好きな場所でした。海岸通りはきれいに整備されていて、いつもたくさんの人が散歩していました。近くに観覧車もあり、夕方などはとても美しい場所です。
市場には色々な食材や品物があり、見ているだけでも楽しい場所でした。また買い物をする時は自分で注文をするのでロシア語の勉強にもなります。

 留学当初は、時間の流れが遅く感じられましたが、終わってみるとあっという間の3ヶ月でした。今では周りからロシア語が聞こえないことが寂しく感じることもあります。大変な事もたくさんありましたが、その分楽しい事もたくさんありました。忘れられない一生の思い出です。

ロシア地域学科3年 豊留 大和

私は、おととし2ヶ月間ウラジオストクに留学していたという経験もあり、今回は余裕を持って現地での生活を楽しむ事ができました。前回の留学と比べて特に違う点を挙げるとすれば、今回はロシア人や韓国人だけではなく、ロシアで働く日本人の方々と知り合いになり、交流を深められたことです。彼らにはいろいろとお世話になりました。
 社会人の彼らが連れて行ってくれたお陰で、おととし学生同士だけでは行く事ができず諦めた店(レストランやナイトクラブ、カジノ等)にも行く事ができ、行動範囲が広がりました。また、いろいろな話をしていくうちに、留学前には「まだ働きたくないから進学しようかなぁ」と考えていた私でしたが、考えが変わり、今では彼らのように働きたいと思うようになりました。
 留学中にロシア語を勉強するのは当然のことですが、それ以外に、多くの人と知り合って話をするのも大事なことです。その点から言うと、この3ヶ月間で自分は少なからず成長できたのではないかと思います。留学中に出会った友人も、そしてウラジオでの楽しかったことも苦労した事も、私の一生の宝物になったと思います。

ロシア語科1年 五十嵐 研

「ロシア」といえば、チャイコフスキー、ドストエフスキーといった古典的なイメージが強い方々が日本には多いと思われるが、私の最大の興味はロシアの現代音楽、大衆歌謡なので、それについて中心に述べてみたい。

 留学中、ウラジオストクには、アルバカイテ、マリーニン、ユーピテル、アーリアといった何人かのエストラード歌手やロックミュージシャンがコンサートに来ていたが、金銭的余裕がなかったので、無念にもコンサートは全く行けずじまいであった。個人的にはイーゴリ・ニコラエフが来ることを期待していたが、やって来なかった。あるロシア人女性いわく、「ニコラエフはナターシャ・カラリェーバと別れて以来、あまり人気もない」とのことだ。今思うと、イーゴリとナターシャがデュエットで歌っているのが結構お似合いだったので、その頃が懐かしい。
 コンサートへ行けなかったからといっては何だが、そういう人間のためにあるようなものがテレビ・ラジオである。
 新旧歌手の入れ替わりの激しいロシアでは、5~6年前の歌手がテレビに映ることはあまり無かったが、プガチョワを筆頭に、ロタル、ドリナ、レオンチェフなどのソ連時代の大御所達が勢揃いする「スヴォートヌィイ ヴェーチェル(バスコフ司会)」、男女デュエットで歌い得点を競い合う「ドゥベズベズディ(アカデミアだったロリータ司会)」を見物出来た。それに対し、最新のヒットテンを紹介する「ガリャーチャヤ ジェシャートカ」、2組に分かれて、はやりの歌のメロディと歌詞を当てて得点を競う「ズベズディ プローティフ カラオケ」、その他、全ロシアからの投票結果をもとにヒットチャートを決定するセルゲイ・マラーホフ司会の番組がある。そして、周知のとおり、音楽専門局のエム・テーヴェーとムス・テーヴェーが存在していた。現在ヒットチャートの常連といえば、ディーマ・ビラン、セルゲイ・ラザレフ、ズヴェーリ、ブレスチャーシェのジャンナ・フリスケといったところか。まあ、年配のメラゼは年間通して各世代から人気が高そうだ。
 ラジオに関しては、さまざまな音楽専門局があったが、ロシアの音楽のみにこだわるのであれば、地元局「ラジオ・レンマ」か「ルースコエ ラジオ」がお勧めだ。「レンマ」は70~80年代のソ連時代の曲から、今の時代に至るまでの音楽を幅広く流している。

 そのほかに感激した出来事として挙げるとすれば、国際部がある極東大学外国語学部5階で、毎週水・金曜にエストラーダ系音楽を主に歌う合唱部の存在についてである。彼は70~80年代の古き良きソ連時代の歌を私の前で披露してくれたのだが、その歌と踊りがあまりにも上手だったので感動した。見学しても構わないそうなので、もし興味のある方は、一度訪れてみるのをお勧めする。
 まさに3ヶ月間の滞在はあっとういう間で、音楽仲間を作る時間も無かったが、次回ウラジオを訪れる際は、より深くロシア音楽の分野を探索するつもりである。

特別寄稿

ウラジオストクでの研修を終えて 道教委インテンシブコース 山崎 淳司

 10月15日より12月10日まで、ウラジオストクの極東大学本学での語学研修に参加する機会をいただきました。わずか2ヶ月ほどの滞在でしたが、ロシア語の習得とウラジオストク現地での日常生活の両面で、非常に貴重な経験を得ることができ、大きな満足を感じると同時に、貴重な機会を与えて下さった極東大学の関係者の皆様に心から感謝しています。
 ウラジオストクでの研修中、毎日午前中は極東大学のロシア語教育施設「ルースカヤ・シュコーラ」で90分の授業を2コマ受けました。授業は会話と文法に分かれており、文法の授業では主に「運動の動詞」を中心に勉強しました。担当のアンナ・ムリャーフキナ先生はいつも綿密に授業の計画を立てており、生徒が理解しやすいように少しずつ段階を踏みながら、とてもシステマティックに動詞の概念や用法を説明してくださるのが印象的でした。「運動の動詞」は私にはとても苦手な分野でしたが、授業のおかげでそれぞれの動詞の使い方を整理して覚えることができました。
また会話の授業では、家族・家・地域など身近な場面での会話表現を習いました。担当のリーマ・クーツェンコ先生はとても朗らかな方で、いつも明るい雰囲気で授業を進めてくださいました。ロシアで生活していると時折日本人にはわかりにくい事柄に出会いますが、そのような文化的な違いを私達がよくわかるように説明してくれるのがとても上手な先生でした。

 さらに文法と会話のほかに、音楽・映像・パソコンの授業もあり、ロシア民謡を歌ったり、映画を見たり、ロシア語のメールボックスを作ったりすることもできました。「ルースカヤ・シュコーラ」の先生方に共通しているのは、それぞれが豊かな知識と経験を持つと同時に、ロシア語とロシア文化を心から愛しており、それを外国人に伝えるという仕事に大きな愛情と誇りを持っていることです。そういう先生方と出会えたことは私にとって大変幸せなことでした。

 「ルースカヤ・シュコーラ」での授業が終わると、午後は積極的に街を歩くようにしました。市電やバスで終点まで行って戻ってきたり、駅・郵便局・書店・デパート・映画館・博物館など様々なところを見学したりしました。幸いなことに、私が出会ったロシア人の大多数はとても善良で愛情深くおおらかな人々でした。到着間もない頃親切に道を教えてくれたお巡りさん、いつも暖かく迎えてくれた街の食堂のおばさんと娘さん、たまたま電車で隣り合わせ別れ際に「気をつけて」と握手をかわした年配の男性、駅の陸橋で時折私を見つけては日本についてよく質問して私のロシア語を鍛えてくれた検札係の若い職員、すっかり私を常連扱いして様々な本を紹介してくれた書店の販売員、スケートボードの練習中に私を灯台まで案内してくれた英語ペラペラの高校生の二人組。わずか2ヶ月でしたが、本当に多くの人々と出会い、つたないロシア語で問答し、また時には酒を酌み交わし、別れを惜しむという、人生の中でまたとない非常に貴重な経験をすることができました。

 彼らの一人一人が私にとってはロシアを知る窓であり、また私自身もロシアの人々にとって日本への窓であったかもしれません。その窓と窓とをつなぐものとして言葉は欠かすことのできないものであり、同時にお互いの文化を理解するために無限の可能性を秘めたものであるということができましょう。日本とロシアの間には解決を要する大きな問題が残っていることは事実です。しかし今回の研修で、一見異質で対照的に見える日本人とロシア人の間に、実は人間としてむしろ通じ合う部分が多いことに気づかされました。今後ともこの研修プログラムが継続して実施され、一人でも多くの日本人がロシアの大地と人々とのふれあいを経験できるよう希望します。