学報 "МИЛЛИОН ЗВЕЗД"

学報"МИЛЛИОН ЗВЕЗД"

No.49 2006.10 "Миллион звезд" ミリオン・ズビョースト/百万の星

日本への航路を探索/ロシア極東連邦総合大学函館校 教授ラチェンコフ・アンドレイ

ロシア人と日本人の初めての出会いを示す最古の記録は、1696年にカムチャツカ半島南部に漂着した大坂商船漂流事件です。ロシアと日本が国交を樹立したのは、それから160年後のことです。

  1601年にオランダで発行された「世界地図帳」が1637年にモスクワに持ち込まれ、その中にあるロシア語の翻訳文から、ロシア人は初めて日本について知りました。1657年には[コスモグラフィア]という世界地図帳がモスクワで発行されました。その中には「ヤポニーヤ国あるいはヤパン島」という記事もあり、この記事には「ヤパン島では金や宝石や真珠の恵まれるところが非常に多い」と書かれていましたが、日本の風土、人口、習俗などについては何も書かれていませんでした。

  1688年にはロシアでは若いピョートル一世が即位しました。11の歳から17歳になるまで、彼は重苦しい宮廷での教育から完全に解放されて、自分自身の好むことを思う存分できました。少年時代のピョートルが一番熱中したのは戦術学と造船学、航海学と地理学でした。しかし算術、砲術、築城などの技術になると、ピョートルは自分の知識では到底かなわないことをすぐに理解しました。
 そこで彼はモスクワの外国人居住地に行き、そこに住んでいるオランダ人やイギリス人やドイツ人の専門家から必要な知識を得ました。そこでは当時の中国や日本や東南アジア諸国についての地理的知識を得ることができました。

 1697年にピョートルは250人から成る使節団をヨーロッパに派遣しました。しかもこのとき彼自身も、ピョートル・ミハイロフという偽名を使って使節団の一員に加わりました。彼はオランダのアムステルダム市で航海学を勉強するときに、最新の地図を見て初めて日本列島と千島列島の南諸島を目にしました。日本は六つの大きな島からなる国で、千島列島の南諸島はウルップ島とイトロップ島という二つの島からなっていました。ところがこの地図で千島列島の南諸島はオランダ領とされていました。1643年、オランダ人デーフリズは新しい金のある島を探して、長崎から出て、遠く北上して、ヨーロッパ人としては初めてこの諸島を発見し、これをオランダ領としたのです。18世紀の中頃まで西ヨーロッパでは、このふたつの小島はオランダの東印度会社の名のもとでオランダ領ということになっていました。
  しかしこの地図には千島列島の北の諸島も樺太島もカムチャッカ半島もまだ記録されておらず、ウルップ島はアメリカ大陸の半島とされていました。

  1701年、カムチャッカの南部で先住民の捕虜になった一人の日本人が、ペテルブルクに送られ、ピョートル大帝の命令でロシア語を習得すると共にロシア人の若者に日本語を教えることになりました。彼の名は伝兵衛と言いました。
  ピョートル大帝は伝兵衛を招いて自ら彼の話を聞きました。ところが、日本についての伝兵衛の話で、ピョートルが知らないことはすでにありませんでした。ピョートルはすでに外国人、主にオランダ人商人たちから、「日本という国は中国から南の沖合にある豊かな島の国であり、貴金属に恵まれており、人口も多い国である」と聞いていたのです。さらに「日本には大きな街も優れた農業も、鉄砲を使う軍もあるが、この国はオランダ人を除いてほかの外国人とは貿易を行わず、長崎港だけでオランダ人と貿易取引をしている」ということも、ピョートルはすでに知っていました。彼が知らなかったのは日本列島への航路だけでした。
  ピョートルは1702年、勅令を発して日本との通商の可能性を探ることを命じました。
  その後、ピョートルは北太平洋探検の命令書を出します。実行役はベーリングで、彼の指揮のもと、第一次、第二次カムチャッカ探検が行なわれ、この探検により、ベーリングはベーリング海峡を発見、つまり、アメリカとロシアは陸続きではないということが確かめられました。そしてアラスカを調査しました。ロシアによる探検と学術調査は1743年まで断続的に続けられました。ロシア人によりカムチャッカへの航路が開拓され、北千島への進出、更に日本への接近となるのです。

学生からの投稿

『青少年交流事業に参加して』 ロシア地域学科4年  川畑 真樹子

今回7月に、わたしたち同級生3人は北方四島青少年交流事業にボランティア通訳として参加しました。
 個人的なことを言うと、いざ、根室に行くまではどうやって緊張をほぐそうかと必死でした。ロシア語だけの時間を過ごすのが久しぶりで、聞き取りもままならないのではないかと思っていたからです。

 まず最初に、市街地散策でロシア人の子供たちと買い物に同行したときのことでした。
 あるロシア人の女の子が「車の芳香剤ってどこ?」と、わたしに尋ねてきたのです。
 "芳香剤"という単語は昨年ウラジオストクに留学したときに、実際に買いに行ったので覚えてはいたのですが、彼女は明らかに辞書には書いていない言葉で言ってきたのです。
 そして、さらに混乱を招いたのは、今回同行していた国後島の団長さんにも「車の芳香剤はどこかしら?」と同じ店で質問されたことでした。その時は団長さんが単語の説明してくださったので、すぐに売り場に連れて行くことができたのですが、このロシア人の女の子はとにかく「芳香剤ってどこ?」と言い続けるだけ。(後に通訳さんに質問したら、そのロシア人の女の子が言っていた言葉は、冗談で"変な匂いするヤツ"という意味で、もちろん、辞書には記載されていませんでした)。
 同じロシア語を話す人でも、まったく違う言い方をする…
 方言とはまた違いますが、今回参加したことでそれが一番ある意味衝撃的で、言葉は人間が生きている限りでは何にでも変化するということを体感した瞬間でした。

 こうして、緊張なんていうものは吹っ飛んでしまい、とにかく、ボランティア通訳としてやることをやらなければと辞書を片手に走りました。
 ボランティア通訳としての仕事は食事の支度から組まれたプログラムをうまく消化するための手伝いまで多岐にわたりました。
  スポーツ(サッカー)交流、書道、生け花、プールなどの体験とさまざまなものがありましたが、一番大掛かりで記憶に残ったのは、"作ろう四島の未来"という日本人の中学生と四島学生による合作をすることでの交流でした。
 四島と根室の未来をお互いに考えて、意見を交換したりしながら、共通のシンボルやモニュメントを造ったり、お互いの伝統的な衣装を着た人たちが行き来している様子、大きな船が自由に行き来する姿など、ひとつひとつの創作物に思いがこもっていました。

 ですが、領土問題という壁が、未だに高く立ちはだかっているという現実を目の当たりにしました。参加以前は、自分の中ではどこかよそ事だなぁと深く意識していなかった部分が強く、この事業に身を置く日数が増えるにつれ、無意識のうちに考える事もありました。現在、この問題を解決するにはあまりにも複雑で進展していません。
  この交流を通して、解決のために何ができるのか?といえば、残念ながら具体的には思い浮かべることはできません。ただ、言えるのは北方領土問題は実はとても身近に存在していて、それに今まで自分は気が付かずに素通りを繰り返していただけということです。

『国後島訪問』 ロシア地域学科4年  川畑 真樹子

 7月に行われた根室での北方四島青少年受け入れ事業を機に、以前に比べ北方領土問題に関心を持ったわたしは、9月15日から18日までの短い期間ではありますが、北方領土の国後島へ行くことになり、自分の目で『北方領土の現状』を確かめる事が出来るいい機会となりました。

 根室を船で出港し、国後島に上陸すると、わたしたちは島民の方の車で移動することになりました。ここには訪問団を乗せるようなバスは無く、何人かで分かれて目的地まで移動するのです。砂埃が多くアップダウンの激しい舗装されていない道を走って揺られているわたしは、窓から見える町の様子を見ていきました。
 最初にわたしたちは地元では「悪魔の指」と言われている岩(日本名:ろうそく岩)を見に行きました。わたしたちは砂浜を歩いてそこまで向かったのですが、自分たちが歩いている砂の色、今にも沈もうとしている太陽の色を見て、ここは日本ではないのか?という錯覚に陥りました。植物も日本で生息しているものとほとんど同じで、何も違和感を感じなかったからです。ロシアと日本が混在しているというのが正確な言い方なのかもしれません。この島にはここをルーツとする2つの国の人々がいて、同じ風景を見ている。
 "顔が見える距離にいるけれど、そこにははっきり境界線がある。"
 残念なことに、それはわたしが見て取れた部分でした。しかし、長い交流を重ねて結果として、だんだん日本人とロシア人の溝というものは無くなっているようにも見受けられました。

 今回、交流の目的として組まれたプログラムの中に"対話集会"というものがありました。この作業で、日本人とロシア人が混住するときに起こるであろう問題を、紙に書いていき、それを分野別にして話し合って、将来を考えていく…どちらもお互いに翻訳された問題を見て、首をかしげたり、思案顔で解決策を考えたり、通訳を介して意見を交換したりと共通の問題について取り組む姿勢はまったく同じでした。
 対話集会の最後に、ある在住ロシア人の方が「このような話し合いならば、もっと島民を連れて来たい」と、言ってくれました。
 ろうそく岩の時に見えた境界線が薄れていきました。

 さらに相互理解を深めて終了した対話集会の他、わたしたちは学校や図書館の見学、音楽学校での音楽鑑賞、景勝地見学、墓参と短い時間内にぎっしりと詰まったプログラムを消化していきました。こうして、国後島を離れ、わたしたち訪問団は根室帰港後に解散となりました。
 せっかく灯した火を消してはいけない。
 この交流でさらに日本人とロシア人はお互いを理解することができたし、さらに理解を深めることだってできます。
 この交流で、わたしは"共生"の道に近づいたと信じています。

サハリン航海記 平成16年度ロシア地域学科卒業生 里 憲

 ひょんなことから、「初秋のサハリンクルーズ」という2泊3日のツアーに夫婦で参加することになった。

 私はもともと船乗りで、お金を稼ぐために、いやいや船に乗るという生活を数十年にわたって続けてきたから、お金を払ってまで船に乗りたい人がいるとは信じられず、「豪華客船で世界一周の旅」などというパンフレットを見ても全然関心がなかった。
 ところが、いざクルーズに参加するということになり、船会社から送られてくる「日程表」や「クルーズガイド」などに目を通しているうちに次第に興味が湧いてきて、スーツケースにダンスシューズを入れようかなどと悩んだりした。また、船旅は退屈なのでひまつぶしに読む本が要ると思い、1冊だけ持っていくことにした。
 思いついたのが、チェーホフの「サハリン島」である。チェーホフがシベリア横断の大旅行を行って流刑の島サハリンを訪れ、その見聞を1冊にまとめていることは知っていた。今回のクルーズに携行するには最適ではないか。函館市中央図書館で中央公論社刊チェーホフ全集の第13巻を借り出した。
 アムール川河口のニコラエフスク港に到着したところから記述が始まっている。客船バイカル号で出港するときの様子。ヨーロッパでは長い間サハリンが半島だと思われていて日本人だけが島だと知っていたこと。中国皇帝の依頼でサハリンの地図を作成した宣教師が、アムール河口対岸のサハリン西海岸に「サハリエン-アンガハータ」と記入したが、それはモンゴル語で「黒い河の絶壁」という意味で、おそらくアムール河口付近の岩か岬につけられたものだったが、誤解されてサハリンの島名になったことなどが書いてある。続きを読むのが楽しみだ。

 こうして、9月10日15時小樽港で商船三井客船の「にっぽん丸(21.903トン)」に乗り込んだ。
 この船は「にっぽん丸」の三代目である。初代は、大阪商船が戦前から経営していた南米航路の移民船「あるぜんちな丸」をクルーズ用に改装したもので、この船による日本を中心とするクルーズが成功し、やがて日本郵船が「飛鳥」「飛鳥Ⅱ」を建造するなど、今日の隆盛を招くこととなった。

 16時出港、一路サハリンのコルサコフ港目指して北上する。小樽とコルサコフの時差は2時間だという。経度の差はほとんどないので、サマータイムの分が1時間含まれているのだろう。
 翌11日早朝コルサコフ北港埠頭に着岸。岸壁上の引込み線に本船の真横まで6両編成の特別列車が入って来てユジノサハリンスク市へのオプショナルツアーに出かける。日本が敷設した鉄道は狭軌で、日本撤退後もそのまま使っていたが、その外側にもう一本レールを敷き、広軌の車両も走れるようにしたという。コルサコフ-ユジノ間の距離は42㎞だというが、2時間近くかかった。線路沿いには白樺、ダケカンバ、落葉松の混じった林が続いているが、遠景にはほとんど木が見られず、北海道の猿払原野のようだ。落葉松は自生していなかったが日本統治時代に製紙用材として植林したのだという。ユジノサハリンスク駅で大型バスに乗り換える。バスはホテルに直行し、そこの食堂で昼食をとった。前菜、ボルシチ、パンとピロシキ、フタロエは鮭のフライにジャガイモ。飲み物としてジュース、ビールのほかウオッカの瓶が立っているのがロシア風だ。
 昼食後、郷土史博物館を見学。旧樺太庁郷土博物館の建物をそのまま使っているとのこと。お城のような瓦屋根をもった石造3階建ての堂々とした建物で、展示品はウラジオストックのアルセニエフ博物館と類似している。囚人に付けた足枷などもある。ネベリスコイ提督の立像があり、サハリンとクリル諸島の開拓に関するパネルもあった。日本との領土問題に関する展示があったかどうかは分らなかった。
 次いで中央市場へ回った。ウラジオのピエルバヤレチカ市場の5分の1ほどの規模だが、入り口にアーケードがあり、塀で囲われた広場にコンテナ改造の店やテント張りの店が並んでいる。ミョッドという看板を見つけ、ボダイジュの蜂蜜を買った。ショーケースに出ているのは見本で、量り売りである。注文するとカウンター上の秤で先ずプラスチック容器の目方を測り、中身を入れて測った目方から風袋分を差し引いて電卓で値段を計算する。空容器の目方を客の面前で測って見せるのが、律儀に思えた。
 その後小劇場で民族舞踊を見物。12、3歳~20歳くらいの少女11人とアコーデオンとバラライカを演奏する男性2人の小規模な歌舞団だったが、民族衣装が美しく、結婚式や村まつりで歌い踊るような民謡のほか、「幸せなら手をたたこう」を日本語で歌ったり、観客席前列に座っていたツアー客を舞台に招き上げて一緒に踊ったりとサービス満点で、結構盛り上がった。
 最後にレーニン広場へ行き、台座を含めて高さ18メートルあるというレーニン像や1995年5月28日地震の追悼記念碑を見物した。レーニン広場は駅前広場に続いており、日本製のD51型蒸気機関車が保存展示されていた。
帰途はバスで50分。最北端の町オハからコルサコフまで続いているという幹線道路は、ユジノサハリンスク市内では4車線であったが、郊外に出ると3車線になった。右車線と左車線の中間の車線は、一定距離毎に右車線になったり左車線になったりする。右車線と左車線との境界は実線で、片側車線の車線区分は点線で示されており、2車線のところは追い越し車線として使われているようだ。3車線の道路を見て初めは驚いたが、うまい方法で、日本でも過疎地の高速道路などに適用できると思った。
 道路沿いに鋼管の集積場が見えた。サハリン2プロジェクトのパイプライン用だという。サハリンプロジェクトで大勢のアメリカ人が来て、ユジノサハリンスク市郊外に土地を買ってゴルフ場を建設しているという。ガイドによれば、同プロジェクトの収益は96%がモスクワに吸い上げられ、地元には4%しか落ちないので住民の関心は低いという。
 やがてコルサコフに近づくと道路は2車線になり、道端に建物が増え始めた。ブロック造りの民家が多いが、大きな木造の古い建物が目につく。日本統治時代の木工場や倉庫を修理しながらまだ使っているのだという。バスはにっぽん丸のタラップの側に着き、7時間のツアーは終わった。

 19時、長音3声の汽笛を鳴らしてにっぽん丸は出港し、夕焼けの中を一路小樽へ向かう。今夜のメインショーはダークダックスのコンサートだ。帰りの航海は2時間の時差を戻したので時間が余り、船は夜半から速力を落として走っている。この間にせっかく持ってきたサハリン島を読もうとしたが、5、6ページ読むのが精一杯だった。

 12日9時30分小樽入港。船室で待機しているうちに税関・入管の手続きが終わって上陸、解散。