学報 "МИЛЛИОН ЗВЕЗД"

学報"МИЛЛИОН ЗВЕЗД"

No.28 2001.07 "Миллион звезд" ミリオン・ズビョースト/百万の星

「イルクーツク主義者の話」/ロシア極東連邦総合大学函館校講師デルカーチ・フョードル

バイカル湖の西端にあるスリュジャンカ駅から出発して、峠を越えようと、ゆっくり回りながら山へ上っている「ロシア号」。20分ほど前に離れたはずのバイカルはまた何度も窓に現れる。金色になりかけている八月終わりのタイガとコントラストする湖のブルーには夕日が映っている。峠を越えると、太陽が山の向こう側に隠れて、すぐに暗くなる。森は鉄道に近く、目の前に終わりのない壁のように立っている。一時間近くたってはじめて人間の存在は感じられる。あちこちに小さな村や市民のダーチャ地帯が見えてくる。そして、暗闇の中に道路を走る車のライトを見て「ああ、着いたぞ。町だ」と思って、なんだかどきどきする。それは、ウラジオストクから3日間「ガタンゴトン」しか聞こえなく、列車の中に体がだらだらになって、宇宙ステーションから帰った宇宙飛行士のように、また赤ちゃんみたいに歩きを習わなければならないからだ。
 シベリア鉄道でイルクーツクへ行く人は、みんな同じような気分を味わうだろう。町に着く時はもう真夜中で、長い旅が終わって疲れて、家やホテルに着いて、すぐにぐっすり眠ってしまう。そして、朝起きて「イルクーツクに着いたね」初めて実感する。イルクーツクはそういう風に人を迎える。
 1661年、この地に着いたコサック部隊はイルクット川がアンガラ川に注ぎ込む場所で要塞を立てた。バイカルの周りにすんでいるブリャート民族のことをロシア語の発音にあわせて「ブラート(兄弟)民族」と呼んだ300年以上前から共存の歴史がさかのぼっている。中国からヨーロッパまで延びた紅茶を運ぶティーロード拠点であったイルクーツクは、その創立からたった25年で「市」のランクを与えられた。アジアとの貿易を目指していたエカテリーナ2世の命令で、日本語を教える「航海学校」は1754年に、ここへ移動された。
 300年の歴史を持つイルクーツクはシベリアでもっともきれいな町の一つとして知られ、ある日本のガイドブックに「シベリアのパリ」とも呼ばれている。とはいえ、市内にある建築の三分の一は木造である。100〜200年前の民家を飾るレースのような木彫り、空をさしている教会の屋根、にぎやかな市場、静かで美しい河岸通り、市民に愛されている4つの劇場、長い歴史を誇る数ヶ所の大学などは、イルクーツクの独特な雰囲気を作り上げる。
 文章を終わるのはあまり得意ではないが、まとめの代わりに、「イルクーツクへ行っていなければ、シベリアも見なかった」といっても言い過ぎではないと思う。イルクーツクに乾杯!

◆寄稿◆
ロシア語科2年生の嶋原健さんが、4月8日から5月3日まで行われたウラジオストク留学実習の感想を寄せてくれました。

「ウラジオ滞在反省記」

 行きは意気込んでいた。帰りはしょげ込んでいた。
明るい夜に、ウラジオストク空港に着いた。ロシアを感ずる荘厳な気配である。直立不動の管制官が、物々しい入国審査が、送迎車内から見える風景のすべてが静寂である。昼の市街地は、しかしまったく賑々しい。というよりも、行き交う車の量がハンパではない。排気ガスによるものか、特有の煙っぽさには辟易した。廃車同然の日本車ばかりが目に付いた。
 はじめての外食に出かけた。棚にある食品名が分からなくて、「奥の」と言いたいのに、それが分からない。そういうもどかしさは、期間中、止めど無かった。
 生活の中心を午前中の授業に据えた。会話と文法が1コマずつで、欠かさず出るようにした。特に文法の授業はロシア語でも完全に付いていけた。もっとも授業外でのロシア語はほぼ完全に聞き取れなかった。煩悶の日は続いた。
 4月26日、私の誕生日に有志が集いパーティーを開いてくれた。例年なら同じ日に生まれたアウレリウスの箴言集を読み、乾杯、泥酔するというのは今作った嘘だが(私は泥酔はしない)、この意外だった歓待のおかげで私は存分に酔うことが出来た。
 そうするうちに、後半を意識し出した。ロシア語にも慣れてきた。皆目聞き取れないということに慣れてきた。帰国時の新潟空港で、Aは「かなり聞き取れるようになった」と言い、Bは「また行きたい」と言うのを聞いた。私はそのどちらでもなかった。だが、そう言うAはウラジオストクに幻滅を抱き、Bはロシア語の勉強に悔恨を残していた。
 この短い留学プログラムにおける成功とは何だろう。今思うに3週間程度で、語学力が飛躍的に向上するとは思えない。ロシアについての理解が180度変わるはずも無い。というとにべもないが、私は一期一会と言う言葉のもつ意味を意識化したい。私は、ロシア人との交流をあえて書かなかった。貴重な出会いに対する敬意が、自分に欠けていたことを戒めているからである。帰りの見送りの時、お世話になったジェーニャさんに「スパシーバ」と言えなかったことが、たぶん私にとってこの留学が不首尾に終わった最大の理由である。